詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松井久子「疼くひと」

2021-02-22 21:53:17 | その他(音楽、小説etc)
松井久子「疼くひと」(中央公論新社、2月25日発行)

小説、ということだが、これはよくも悪くも、映画のシナリオである。
つまり、ここに書かれている人間は、生身の人間(しかも他人)によって演じられてこそ、初めていきいきと動く。
私は映画も演劇も作ったことがないからいい加減なことを書くが、いい映画や芝居は、役者の肉体が、監督や演出家の意図を超えて動く瞬間を含んでいる。
ぜんぜん知らない人間が、私はここにいる、と肉体そのもので主張する。予期しない過去をさらけだすのである。
それに、観客はたじろぐ。私の肉体も、そうあり得たかもしれない、と。
この小説の二人の主人公は、予期せぬ他人に驚き、同時に新しい自己を確信する。それと同じように。
だからこそ、シナリオだと思う。ぜひ、映画に撮ってもらいたい。

そのとき、注文。
映画は245ページのカモメのシーンで終わってほしい。
その方が傑作になる。
女の映画になる。
女が主人公になる。
たぶん、多くの読者はこの小説の終わり方に納得するだろうけれど、それは男の小説の終わり方である。疑問がない。しかし、それでは読む喜びがない。

*

少し補足すると。
カモメのシーンで終わると、読者、観客は、男の子が恋人かなあ、カモメが恋人かなあと考える。
そうすると、母親が女性主人公?
女性主人公は、それを目撃しているから母親ではありえにのだけれど、男が求めていたのは母親だったかもしれない、という具合に謎が深まってゆく。
もちろんカモメが女性主人公かもしれない。
見方は、その人の体験と想像力によって違ってくる。だからおもしろい。
この部分は、私は、とても好きなんです。
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松井久子「疼くひと」

2021-02-22 17:05:12 | その他(音楽、小説etc)
松井久子「疼くひと」(中央公論新社、2月25日発行)

小説、ということだが、これはよくも悪くも、映画のシナリオである。
つまり、ここに書かれている人間は、生身の人間(しかも他人)によって演じられてこそ、初めていきいきと動く。
私は映画も演劇も作ったことがないからいい加減なことを書くが、いい映画や芝居は、役者の肉体が、監督や演出家の意図を超えて動く瞬間を含んでいる。
ぜんぜん知らない人間が、私はここにいる、と肉体そのもので主張する。予期しない過去をさらけだすのである。
それに、観客はたじろぐ。私の肉体も、そうあり得たかもしれない、と。
この小説の二人の主人公は、予期せぬ他人に驚き、同時に新しい自己を確信する。それと同じように。
だからこそ、シナリオだと思う。ぜひ、映画に撮ってもらいたい。

そのとき、注文。
映画は245ページのカモメのシーンで終わってほしい。
その方が傑作になる。
女の映画になる。
女が主人公になる。
たぶん、多くの読者はこの小説の終わり方に納得するだろうけれど、それは男の小説の終わり方である。疑問がない。しかし、それでは読む喜びがない。
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犬飼楓「前線」

2021-02-22 10:31:56 | 詩集
犬飼楓「前線」(書肆侃侃房、2月7日発行)

犬飼楓「前線」は歌集。
コロナ最前線の医療現場の声が聞こえる。
タイムリーな歌集だが、急ぎすぎたのか、ことばが肉体を離れ、意味になろうとしている。
そのなかで私が目を止めたのは。

文句言う先がなければゴミ箱に黙って手袋深く沈める

「深く沈める」に、肉体の動きがあり、深くも、沈めるも、そのまま強く響いてくる。

「し」と打てば「新型」と出る電カルの予測を超えて「信じる」と打つ

この歌も「打つ」に魅力がつまっている。打つとき、打たれるものは自己ではない。自己の手を離れたものに何かを託す。そういう「打つ」があることを教えてくれる。
祈るではなく、「信じる」が、そのとき強く響く。
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西川「読書を論ず」

2021-02-22 07:09:06 | 詩(雑誌・同人誌)
西川「読書を論ず」(竹内新訳)(「カルテット」7)

二行ずつの連が続いている。対句が続いている。
中国人は対(二つ、偶数)が好きである。1+1=2で世界が完成する。3から先は無限である。(と、私はかってに中国人の思想、肉体を判断している。)
この西川の詩は、対句構成が延々につづくので、ちょっと奇妙である、と感じたとき、ふっと、中井久夫がこんなことを書いていたのを思い出した。
日本人の論文とアメリカ人の論文は違う。その違いのために、日本人の論文はアメリカ人には通用しない。
どこが違うか。日本人の思考には中国思想が影響している。漢詩の構造に起承転結がある。日本人の論文は、この起承転結の形で書かれる。しかし、アメリカ人か起承承承承、、、結である。
私なりに言い直すと、日本人の思考は、書き出し+そして+しかし(あるいは)=(ゆえに)結論。
アメリカ人は、書き出し+そして+そしての延々=(ゆえに)結論、なのだ。
西川の詩は、対句という形では中国人の思考だが、簡潔な起承転結形を破り、そして(承)をつづけていくという点ではグローバル(アメリカナイズ?)なのである。

これが詩の感想かと言われると少し困るが、きょう考えたこと。
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