服部誕『祭りの夜に六地蔵』(思潮社、2023年10月10日発行)
服部誕『祭りの夜に六地蔵』に「風の石」という作品がある。「酒船石異聞」というサブタイトルからわかるように、石造りの遺構を訪ねたときのことを書いている。
遅れている
時の到着を待つあいだ
わたしは
石の冷たさに
しばし倚りかかる
これに類似したことばが、そのあと出てくる。
おおきく
伸びをしたわたしは
軽いめまいを
石に預けた
背でささえる
第三者から見れば、石と「わたし」の関係は、どちらも同じ姿に見えるだろう。しかし、服部は書き分けている。「倚りかかる」と「石に預けた/背でささえる」とに書き分けている。この変化に詩がある。これは、この後の連を読むと、さらにはっきりするのだが、それは後で書くことにして……。
石と「わたし」の関係は、後者の場合、正確には(文法的には?)、背で支えているのは「軽いめまい」なのだが、そしてそれは「わたし」が石に支えられていることになるのだが、私は一瞬、私が「石」を支えているように感じてしまう。めまいのとき、世界が揺れる。石も揺れる。その揺れ動く石を、「わたし」が背で支える。石と「わたし」の関係が入れ代わる。私は、そう「誤読」してしまう。石と「わたし」が一体になり、そこに新しく生まれてきている。「新しい世界」がそこに出現している。
この「新しい世界の出現」という感じは、前者の引用にはない。そこには詩はなく、散文としてのことばの運動がある。
しかし、後者では何かが動いている。「肉体」の動きが、「ことば」を刺戟して、「ことばの肉体」を動かしている。「軽いめまいを感じ、石に背中を預けて、わたしは倒れるのを防いだ」と書くこともできるのに、「ささえる」という動詞をつかったたために、「肉体」の動きが克明になった。「倒れそうになった姿勢をささえた」ではなく「軽いめまいを/背中でささえた」。「肉体」のなかから「めまい」を引き出して、それを「ささえ」ている。あ、まだ、めまいが軽くつづいている。
めまい、その酔ったような感覚のなかで、私は石と「背中」の関係を見失うというか、ふたつの渾然一体のものとして感じる。
この渾然一体の感覚の後、次の三行がある。
思いがけなく
あたたかな
石のあかるみ
ここ、いいなあ、と思う。
自分をささえてくれる石の「あたたかな/あかるみ」。「あたたか」と「あかるみ」が一体になって、背中に伝わる。
と、書いて、
不思議に思わない人もいるかもしれないけれど、私は、ちょっと不思議に思う。「あたたか(さ)」は皮膚感覚(触覚)だから、背中で感じることはできる。しかし「あかるみ」は視覚が判断するもの。それなのに背中で感じている。触覚と視覚が融合している。つまり、人間の感じる何かを触覚/視覚に分離し、固定化して、(そういう定型化した方法を採用して)、書いているのではなく、それは触覚なのか、視覚なのかという批判(?)を恐れずに、渾然一体のものとして書いている。
私たちの「肉体」には「あたたか」と「あかるい」を共通のものとして感じる触覚と視覚が融合した「いのち」があるのだ。こういう学校文法で定型化(固定化)した表現を破壊し、「いのち」そのものが感じているものをつかみとり、言語化することを、私は詩と定義している。だから、それは詩だけではなく、さまざまな散文でもおこなわれている。
きのう書いた野沢の「隠喩論」の批判のつづきとして書き加えれば、「軽いめまいを/石に預けた/背でささえる」から「あたたかな/石のあかるみ」への変化のなかに「隠喩」の「いのち」がある。
服部は書いてはいないが(隠喩だから、書く必要がないのだが)、最後に引用した三行は、学校文法で書き直せば
思いがけなく
あたたかな
石のあかるみ
感じた
である。「感じた」が省かれている。それは、服部の「肉体のことば」であり、それが無意識的に「ことばの肉体」に反映して、「感じた」が隠れてしまっているのである。「感じた」は、ことばにする必要がないもの、「無意識」であり、それは書かれていないから存在しないのではなく、書く必要がないくらいしっかりと服部の「肉体/ことば」になってしまっている。
あらゆる「隠喩」は、そういう「いのち」の動きとしてあらわれる。
「隠喩」とは(あるいは、比喩全部といってもいいが)、「対象」の「言い換え」ではない。そういう「比喩」は、いわば「記号」である。1+2=3をA+B=C、C-A=Bというときの「記号」のようなものである。
「隠喩」とは「記号」ではなく、「いのち」の運動である。いつでも、それが「どう動いているか」ということでしか語ることのできないものである。
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