詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(49)

2018-08-26 09:30:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
49 男と女

男どもよ この妾を 砂浜から道へ抱え挙げよ
日の昇るトロイアに向けての 朗読祭の終わり
満月のように豊かに肥った老女優は 宣うたものだ
しかし こんにち男の名に価する男はいるのか

 と始まるこの作品も「47 詩人と盲目」の続篇。
 女の名に値する女はいるが、男の名に値する男はいない。それは「こんにち」だけのことではない。

そもそもいたのか あの輝かしかった神話時代にも
デルポイのアポロンの股間は 小児の皮かむり

 男根だけが男の値ではないが、男根と男を同じものとする見方は根強い。神話時代からこんにちまでつづいている。しかし、こういうことを語ってみてもおもしろくない。
 
 もう一度「名」ということばに目を向けてみる。「名」は「名づける」という「動詞」といっしょに動いている。「名」の奥には「名づける」という動詞が隠れている。そして、「名」として表にあらわれてきたものは、「ことば」だ。
 「ことば」はいったん表にあらわれると「事実」を規定し始める。「事実」をあらわす(つたえる)ための「ことば」が「事実」を型にあてはめてしまう。「型にはまった事実」を「現実」と呼ぶ。「現実」が大手をふるい、「事実」は遠ざけられる。あるいは「永遠」は遠ざけられる。「真理」が隠される、と言いなおしてもいい。
 そういう状況のなかで詩を読む。つまり「ことば」をあたらしく生み出す。これはむずかしい仕事だ。

 見方を変えなければならないのかもしれない。

 高橋が向き合っているのは「現実」という「現象」、いいかえると「現象」としての「現実」ではなく、「ことば」そのものである。「ことば」は神話時代からかわらない。いや、ことばは変わりつづけている。神話時代のことばはない、というかもしれない。それが問題なのだ。高橋は「いま生きていることば」ではなく、死んでしまった「神話時代のことば」と向き合っている。「名づけられたこと(ば)」と向き合っている。
 高橋のことばには、死のにおいがする。古いこわばりと冷たさがある。特にこの詩の男と女の定義は、古すぎる。ほんとうに高橋の詩に触れるには、その「古くささ」そのもの、死んでしまったもの、「歴史」と「文化」を見つめるようにして読まないといけない。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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