長田弘『最後の詩集』(みすず書房、2015年07月01日発行)
長田弘『最後の詩集』はほんとうに長田にとっての最後の詩集。もう新しい作品を読むことはできない。何だか、悔しい。悔しいけれど、まず、詩集を残してくれてありがとうと言わなければならないだろう。ほんとうに、ありがとうございます。
この詩集を読むと、長田が「青」が好きだったことがわかる。長田にとって「青」とは「透明」でもある。そしてそれは「光」でもある。巻頭の「シシリアン・ブルー」を読むとそのことが伝わってくる。
二行目で、空と海はすでに「一体(ひとつ)」になっている。「青」の「かさなり」の「かさなり」のなかに「空」と「海」があり、そこから「光」が生まれる。そこから「光」が走ってくる。走ってくるとき、その動きのなかに「透明」が散乱する。「空色。水色。」そういうことばになって「散乱する」。「散乱する」のだが、それは、ばらばらになってしまうのではなく、「かさなり」が広がるということだ。この「広がり」を長田は「どこまでも、どこまでも」と書いている。繰り返しているのは、その「どこまでも」がずっとつづくからである。ずっとつづきながら、あるとき「空」になり、あるとき「海」になる。そして「青」になり、「透明」になり、「光」になる。ことばは変化するけれど、そこに「ある」ものは「ひとつ」。それが二行目、「空」と「海」を「一行」のなかに書いてしまっているところに象徴的にあらわれている。
「青」についてのことばは、さらに「散乱」し、さまざまな「色」を動きつづける。
さまざまに「散乱する」が、それは「永遠」と「混ざりあっている」。それぞれのなかに「永遠」の「かさなり」がある。「永遠」と「ひとつ」になっている。「ひとつ」になっているからこそ、それを「すべて」という一語で長田は呼ぶ。
長田はこの光景を、「イタリア、シチリアのエリチェ」の、「三千年近くも前に、フェニキュア人が/断崖絶壁の上に築いた石の砦」から見ている。そして、その見ている「青/光/透明」を再び言い直している。
「文明」を定義して、長田は「もっともよい眺望を発見する」ことと言う。この「文明」を「詩」と置き換えると、長田の詩の「本質」を定義したことになるだろう。
いま長田は「フェニキュア人の砦から」空と海を見つめている。見つめるだけでは「眺望」にならない。見つめたものを「ことば」にすることで「眺望」は完成する。いま見ているもの、見えているものに、もっともいい「ことば」は何か。それを探しながら、長田は詩を書いている。そして、「どこまでも」ということばをつかみ、「青/光/透明」ということばのなかに「散乱」させる。ことばはさまざまに「散乱」しながら視覚を「どこまでも」広げていく。「眺望」に変えていく。そして、それが完成したとき、そこに「永遠」が見える。「青と混ざりあっている永遠」から「永遠」が「透明な光」となって純粋に輝く。
でも、それではまぶしすぎて、見えない。だから、長田は、もう一度言い直す。
シチリアで発見した青。シチリアで出会った色。
「シシリアン・ブルー」は単に「青」の種類を書いているわけではない。そこには長田の「出会い」を大切にする生き方がこめられている。シチリアに行き、そこで色に出会っている。その出会いを忘れないようにするために「シシリアン・ブルー」と叫んでいる。絶対的な(抽象的な)「永遠」から少し引き返し、「現実」と切り結んでいる。「シシリアン(シチリアの)」ということばで「現実」を生きている。
何かに出会い、その出会ったものを、もっともよく「眺望」できることばにする。そうすることで、一瞬一瞬、長田は生まれ変わっている。
この詩集には、そういう作品が収められている。
この「眺望」と「詩」の関係は、「詩って何だと思う?」では、
という形で言い直されている。ことばを通して、空の色を「知る」。そこにあるものを「見る」だけではなく「知る」ためには「ことば」が必要であり、見えたものを「ことば」にしたとき、「眺望」がはっきりする。その「眺望」を完成させる「ことばの動き」。それが詩である。
さらに、この作品のなかで長田は、
と書く。この「歩く」は、何かと出会うことと同じ意味である。「歩く」ことで自分から出て行く。いまの「眺望」を捨てて、ちがう「眺望」に出会う。たとえばシチリアに行く。そこで美しい空と海の光景に出会う。それをことばにする。そのとき世界が広がる。人間が大きくなる。そうやって長田は生きてきた。
長田のそういう「歩き方」を支えるものに、ひとつ大切なものがある。他人のことばだ。読書だ。他人のことばとしっかり向き合う。そして自分のことばをととのえなおす。
「円柱のある風景」は同じくシチリアを書いたものだが、そこには和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』の一節(ギリシャ文明/建築に触れた文章)が引用されている。和辻のことばを通りながら、長田は長田のことばの動きをととのえ、和辻の書かなかったところを「眺望」している。長田が何から影響を受けているか、それをどう受け止めて自分をととのえたか。そういうことを正直に書いている。ここにも「出会い」を大切にし、そこから「永遠」へ近づいていこうとする長田の姿勢が見える。
詩集には、新聞に発表されたエッセイ(大橋歩のイラストつき)もおさめれらている。長田の静かな生き方が滲んでいる。
詩集のカバーは、「シシリアン・ブルー」ではなく、少しくすんだような、まぶしすぎる空の奥の、暗さを含んだ青色だが、これが逆に詩集のなかの「透明」な感じと響きあっている。とても美しい一冊だ。
長田弘『最後の詩集』はほんとうに長田にとっての最後の詩集。もう新しい作品を読むことはできない。何だか、悔しい。悔しいけれど、まず、詩集を残してくれてありがとうと言わなければならないだろう。ほんとうに、ありがとうございます。
この詩集を読むと、長田が「青」が好きだったことがわかる。長田にとって「青」とは「透明」でもある。そしてそれは「光」でもある。巻頭の「シシリアン・ブルー」を読むとそのことが伝わってくる。
どこまでも、どこまでも
空。どこまでも、どこまでも海。
どこまでも、どこまでも
海から走ってくる光。
遠く、空の青、海の青のかさなり。
散乱する透明な水の、
微粒子の色。晴れあがった
朝の波の色。空色。水色。
二行目で、空と海はすでに「一体(ひとつ)」になっている。「青」の「かさなり」の「かさなり」のなかに「空」と「海」があり、そこから「光」が生まれる。そこから「光」が走ってくる。走ってくるとき、その動きのなかに「透明」が散乱する。「空色。水色。」そういうことばになって「散乱する」。「散乱する」のだが、それは、ばらばらになってしまうのではなく、「かさなり」が広がるということだ。この「広がり」を長田は「どこまでも、どこまでも」と書いている。繰り返しているのは、その「どこまでも」がずっとつづくからである。ずっとつづきながら、あるとき「空」になり、あるとき「海」になる。そして「青」になり、「透明」になり、「光」になる。ことばは変化するけれど、そこに「ある」ものは「ひとつ」。それが二行目、「空」と「海」を「一行」のなかに書いてしまっているところに象徴的にあらわれている。
「青」についてのことばは、さらに「散乱」し、さまざまな「色」を動きつづける。
どこまで空なのか。どこから海なのか。
見えるすべて青。すべてちがう青。
藍、縹(はなだ)、紺、瑠璃、すべてが、
永遠と混ざりあっている。
さまざまに「散乱する」が、それは「永遠」と「混ざりあっている」。それぞれのなかに「永遠」の「かさなり」がある。「永遠」と「ひとつ」になっている。「ひとつ」になっているからこそ、それを「すべて」という一語で長田は呼ぶ。
長田はこの光景を、「イタリア、シチリアのエリチェ」の、「三千年近くも前に、フェニキュア人が/断崖絶壁の上に築いた石の砦」から見ている。そして、その見ている「青/光/透明」を再び言い直している。
フェニキュア人の砦からは、
世界のすべてが見えた。
文明とは何だ。--この世で
もっともよい眺望を発見するという、
それだけに尽きることだったのでないか。
「文明」を定義して、長田は「もっともよい眺望を発見する」ことと言う。この「文明」を「詩」と置き換えると、長田の詩の「本質」を定義したことになるだろう。
いま長田は「フェニキュア人の砦から」空と海を見つめている。見つめるだけでは「眺望」にならない。見つめたものを「ことば」にすることで「眺望」は完成する。いま見ているもの、見えているものに、もっともいい「ことば」は何か。それを探しながら、長田は詩を書いている。そして、「どこまでも」ということばをつかみ、「青/光/透明」ということばのなかに「散乱」させる。ことばはさまざまに「散乱」しながら視覚を「どこまでも」広げていく。「眺望」に変えていく。そして、それが完成したとき、そこに「永遠」が見える。「青と混ざりあっている永遠」から「永遠」が「透明な光」となって純粋に輝く。
でも、それではまぶしすぎて、見えない。だから、長田は、もう一度言い直す。
ブルー、シシリアン・ブルー!
シチリアで発見した青。シチリアで出会った色。
「シシリアン・ブルー」は単に「青」の種類を書いているわけではない。そこには長田の「出会い」を大切にする生き方がこめられている。シチリアに行き、そこで色に出会っている。その出会いを忘れないようにするために「シシリアン・ブルー」と叫んでいる。絶対的な(抽象的な)「永遠」から少し引き返し、「現実」と切り結んでいる。「シシリアン(シチリアの)」ということばで「現実」を生きている。
何かに出会い、その出会ったものを、もっともよく「眺望」できることばにする。そうすることで、一瞬一瞬、長田は生まれ変わっている。
この詩集には、そういう作品が収められている。
この「眺望」と「詩」の関係は、「詩って何だと思う?」では、
窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。
という形で言い直されている。ことばを通して、空の色を「知る」。そこにあるものを「見る」だけではなく「知る」ためには「ことば」が必要であり、見えたものを「ことば」にしたとき、「眺望」がはっきりする。その「眺望」を完成させる「ことばの動き」。それが詩である。
さらに、この作品のなかで長田は、
人に必要となるものはふたつ、
歩くこと、そして詩だ。
と書く。この「歩く」は、何かと出会うことと同じ意味である。「歩く」ことで自分から出て行く。いまの「眺望」を捨てて、ちがう「眺望」に出会う。たとえばシチリアに行く。そこで美しい空と海の光景に出会う。それをことばにする。そのとき世界が広がる。人間が大きくなる。そうやって長田は生きてきた。
長田のそういう「歩き方」を支えるものに、ひとつ大切なものがある。他人のことばだ。読書だ。他人のことばとしっかり向き合う。そして自分のことばをととのえなおす。
「円柱のある風景」は同じくシチリアを書いたものだが、そこには和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』の一節(ギリシャ文明/建築に触れた文章)が引用されている。和辻のことばを通りながら、長田は長田のことばの動きをととのえ、和辻の書かなかったところを「眺望」している。長田が何から影響を受けているか、それをどう受け止めて自分をととのえたか。そういうことを正直に書いている。ここにも「出会い」を大切にし、そこから「永遠」へ近づいていこうとする長田の姿勢が見える。
詩集には、新聞に発表されたエッセイ(大橋歩のイラストつき)もおさめれらている。長田の静かな生き方が滲んでいる。
詩集のカバーは、「シシリアン・ブルー」ではなく、少しくすんだような、まぶしすぎる空の奥の、暗さを含んだ青色だが、これが逆に詩集のなかの「透明」な感じと響きあっている。とても美しい一冊だ。
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