詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡島弘子「アイロン」

2015-09-05 10:31:25 | 長田弘「最後の詩集」
岡島弘子「アイロン」(「つむぐ」11、2015年08月15日発行)

 岡島弘子「アイロン」は、いわゆる「主婦の詩」?

網目にからんだ想いのみれんをとりのぞき
ぬめりをふきとり
泡だてて金属タワシでみがき
流し台をよみがえらせる手

 ここまでは、流し台を磨いている主婦の「日常」。一行目の「想いのみれん」ということばに岡島の「過去」と「現在」がこめられているのかもしれないけれど、まあ、それにしたって「主婦のみれん」だろうなあ、具体的に知りたいという欲望も起きないなあ、と思っていると、五行目。

をささえる足のうら

 唐突に「足のうら」が出てくる。これ、何? 
 二連目。

買い物メモをとり
今晩の献立をかんがえ
特売品をすばやく計算する脳
きのうの記憶をはんすうする海馬
をうけとめる足のうら

 たしかに人間のいちばん底(?)は「足のうら」かもしれないけれど、ふつうは「足」としか言わないなあ。体をささえる足。台所仕事をするとき、その体をささえる足。考え事をするときも、その脳を含め、体をささえる足。
 なぜ「足のうら」なんだろう。
 そう思っていると、

南北東西 喜怒哀楽
親指も小指もかってな方向にとびだしてしまった
外反母趾をもつつむ
足のうら

だから足のうらをアイロンにかえて

わたしの全生涯をかけた重みと
たいおんといういのちのほてりをもったアイロンにかえて

新雪に まずアイロンがけをしよう
人間じるしのアイロンをあててみようか

 あ、新雪に足跡を印したいのだ。
 そのことがわかって、それから「アイロン」という比喩に、ええっと驚く。
 私は野ぎつねになって足跡をつけてみたい、鳥になって足跡をつけてみたい、という具合には思う。(ついでに、小便で自分の似顔絵を描いてみたいとも……。)
 「アイロン」なんて、思いもつかない。
 そうか、岡島はいつもアイロンをかけているのか。アイロンがけは流し掃除や夕御飯をつくることと同じように、日常に組み込まれた「主婦の仕事」なんだな。
 でも、少し変じゃないかなあ。
 アイロンというのは、しわをのばすもの。洗濯で入り乱れた繊維をきちんとととのえ直すこと。「新雪」に「しわ」はないぞ。生まれたての、なめらかな肌。ととのえる必要はない。足跡をつけるのは、むしろ、汚すこと。汚して遊ぶこと。
 でも、それを岡島は「アイロンがけ」と呼ぶ。
 そうか、「新雪」にアイロンがけをするということは、自分自身にアイロンがけをすること、「足のうら」にアイロンがけをすること。そういう相互作用(一体化)のことを言っているのだな。
 たとえば台所をみがく。それは単に台所を美しくするということではない。岡島自身を整理し直すこと、美しくすることなのだ。献立を考え料理を作り、家計の計算をするというのは、自分をととのえ直すことなのだ。どうすれば、自分がいちばん美しくなるか。ととのうか。ととのった暮らしが、ととのった岡島の「肉体(思想)」そのものなのだ。
 あ、こんなふうに書いてしまうと、「主婦礼賛」のようになってしまう。女性を「主婦」に閉じ込めてしまうことになるかもしれないが。誤解をまねきそうだが……。
 「アイロン」というのは「もの」だが、「アイロンがけ」というのは「アイロンがけをする」という「動詞」として生きていて、そこに「肉体」がある。「アイロン」は隘路をかける」という「動詞」によって、岡島には「肉体」になっている。「肉体」になっているから、新雪と直接触れるのだということがわかり、とても新鮮なのだ。
 岡島が「足」と言わずに「足のうら」と言っているのは 、岡島にとって「アイロン」とは「アイロンの底面(うら)」であることを語っている。「アイロン」はそんなふうに岡島の「肉体」になっている。「肉体」として動いている。だから岡島はすぐに「アイロン」になることができた。
 比喩の強さ、比喩の絶対性がここにある。「アイロン」の比喩をこれから読むことがあるとしたら、私はそのたびに岡島のこの詩を思い出すに違いない。


ほしくび
岡島 弘子
思潮社

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