詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「言葉から言葉へ」

2023-02-13 16:42:09 | 詩(雑誌・同人誌)

田原「言葉から言葉へ」(「すばる」2023年03月号)

 田原「言葉から言葉へ」は、谷川俊太郎と高橋睦郎の対談「詩の生まれるところ」のあとに編集されている。対談と、何か関係があるのか、ないのか、よくわからない。対談が田原のことばではじまっているので、「詩のはじまりと、ことばの関係」について考えるというテーマがあったのかもしれない。
 野沢啓の『言語隠喩論』のことを少し思った。
 田原は、こう書き始めている。

 詩はいったいどこからやってきたのだろう。(略)言葉から来ているのは間違いないし、言葉から言葉へと進む行為であるのも間違いない。では、言葉とは何だろう。それは言語から生まれてくるとしか考えられない。

 「言葉」と「言語」と、「ことば」をあらわす用語がふたつある。それは、どう違うのか。田原は、「言語」を、こう定義している。

言語は、思考とコミュニケーション(意思伝達)の道具であり、人間の思惟活動と密接な関係性を維持している。世界中に様々な言語が存在しているが、どの言語もだいたい文字、音声とボディーランゲージという三種類からなっている。

 この定義で私が注目したのは「世界中に様々な言語が存在している」ということばである。「様々な言語」とは、「様々な国語」と言い換えることができるかもしれない。しかし、これには保留が必要である。「国語」ではない「ことば」があるからだ。言い直すと「公用語」と認定されていない「ことば」があるからだ。単純に「国語」と私が「言い換え」をしたのは、田原が問題にしているのは「言語」はある一定の人々のあいだで共有されている「ことば」と読むことができるからである。
 日本語が「言語」であるのは、日本に住む多くのひと(ほとんど大多数)によって共有されているからであり、そのことによって「日本語」と呼ばれる。「中国語」は、中国に住む多くのひと(ほとんど大多数)によって共有されている「言語」ということになる。
 これに対して、田原が「言葉」と呼んでいるものは、「言語」と違って、同じ「日本語」「中国語」を共有するほとんどのひとによって共有されるとは限らない。谷川俊太郎の詩、高橋睦郎の詩、田原の詩の「ことば」は、多くのひとによって共有されるとは限らない。むしろ、わずかなひとにしか共有されない。
 小説には、ときどき百万部を超す発行部数のものがあるが、だからといって、そこに書かれている「ことば」が百万人に共有されたかどうか考えると、必ずしも共有されたとは言えないだろう。ここに書かれている「ことば」は嫌い、もう読まない、と途中で放り出しても、それは「国語(共有された言語)」にとっては、事件にはならない。何も起きたことにはならない。
 なぜか。
 田原の表現を借りて言えば、「言葉」とは、ある一定のひとによって共有されている「言語」から生まれてきたもの、「言語」から独立した存在だからである。日本語(国語/言語)は、個人のことばがどうなろうが気にしない。
 「ことば」につかわれる「文字」「音」がたまたま共通するから、「共通の言語」であると混同されるが、それは別の存在である。別の「ことば」である。(ボディーランゲージについても田原は書いているが、私は、それによって何かをあらわそうとした経験が少ないので、考えないことにする。)私は、この田原の考え方に賛成である。
 私は、だから、しきりとこんなふうに言う。たとえば詩の講座で、谷川俊太郎の詩を読みながら、こういうことを言う。「日本語で書かれている。その日本語は、たいていの場合、全部、理解できる。しかし、それは日本語ではなく、谷川語で書かれている。そこに書かれていることばを日本語として知っていても、そして、それを日本語としてつかっていても、そこには自分のつかっている日本語とは違うものがある。それをみつけることが大切。谷川語で書かれているのが詩なのである」。
 そして谷川語をみつけるということは、実は、自分の「ことば」と谷川語の違いを探すことでもある。自分のなかにも「日本語」ではないものがある、と気づくことでもある。でも、これに気づくのは非常にむずかしい。私はそんなにむずかしいことではないと思っていたのだが、先日の詩の講座で、谷川の「父の死」を受講生のみんなといっしょに読んだときに、むずかしいということに気づいた。
 私は「父の死」のなかに、自分が体験しなかったことが書いてないか、と質問した。しかし、みんな、答えられない。「谷川語」を「日本語」に翻訳してしまって、「日本語」として把握してしまう。
 私は、念押しのようにして問いかける。「天皇から香典のようなものがくる。これ、経験した? 私は父も母も死んだけれど、天皇からそんなものをもらっていない」。こう言っても、谷川徹三が死んだのなら、天皇が香典をおくるというのは理解できる、とそこに書かれていることを「要約」してしまう。ゴム印で三万円と書いてあることに対しても、同じである。私は、そのことにほんとうに驚いてしまった。そこに書かれていることは、どれもこれも、「日本語」として「意味」を理解できるが、いままでに一度も聞いたことのない「ことば」であり、体験だった。谷川が「ことば」にすることによって、初めて読む体験であ、り「ことば」である。
 こんなふうに考えることもできる。私がたとえば天皇から香典を受け取る。その袋に、ゴム印で三万円と書いてある。そのことを私はどんな「ことば」で書くことができるか。谷川と「同じ文(ことば)」になるか。きっと、ならない。「意味」は同じになるかもしれないが、「ことば」は違う。
 つまり、それは「谷川語」としか言いようのないものなのである。「言語」は「意味」に要約できるものを含み、「ことば」は「意味」に要約できないものを含む。「谷川語」は谷川によってしか話されていない。書かれていない。だから、それを「日本語」に翻訳するのではなく、自分の「ことば」に翻訳しないといけない。「日本語」に翻訳してしまうと、それは「要約」になってしまう。

 少し脱線するが。
 昨年の夏、私は「ことば」をめぐって、おもしろい体験をした。スペインの彫刻家を訪問したときのことである。双子の兄弟がいる。そのひとりとは「ことば」が通じるが(会話ができるが)、もうひとりとは「食い違い」が起きる。簡単に言えば、「ことば」が通じない。すると兄が弟に「私が言うことを通訳して、修三に言え」と言う。えっ、スペイン語をスペイン語に「通訳」する? それで何か解決する? これが、実は、解決するのだ。兄が言ったことは理解できないのに、弟が言い直す(通訳する)と通じる。
 「言語」はスペイン語で共通しているが、「兄語(兄のことば)」と「弟語(弟のことば)」は違い、それは「修三語(私のことば)」とは別の存在なのである。「ことば」はそれぞれ個人に属しているから、それはときとして「意味の伝達」を邪魔するのである。
 冗談みたいな話だが、冗談ではない。
 文学ではない世界でもそうなのだから、文学の世界では、この「ことば」の問題、「翻訳の不可能性(あるいは可能性)」は、もっと深刻である。
 ある外国文学作品で、だれそれの翻訳はぜんぜんわからないが、別の訳者のものはとてもよく理解できる、というようなことが起きるのは、翻訳者が「日本語」で訳しているのではなく、それぞれが「翻訳者個人のことば」で訳しているからだろう。
 
 こういう問題を、田原は、こんなふうに書いている。

一流の文学作品はいつも個人化という基礎の上に、世界性あるいは人類の普遍的な認知とある種の内在的な関連が発生するとも思われる。

 「個人化」とは「個人語(ことば)」であり、「世界性、人類の普遍的認知」とは「言語」であると読むことができる。「言葉(私は、ことば、と書く)」と「言語(それぞれの国語)」とのあいだで発生する「内在的な関連」に、「詩」というものが存在する。それはいつでも「言語(国語、共有されたことば)」とは違ったもの、「要約できないもの」を含んでいる。だれにも「要約」できない何かを含んだ「絶対的なことば」「一回性のことば」というものが詩であり、文学である。
 この「一回性」に向き合うには、自分自身のことばを「一回性のことば」にする覚悟がないといけない。
 私のことばが「日本語」でなくなってもかまわない、と覚悟したときから、「文学」が魅力的になる。「谷川語」「高橋語」がおもしろくなる。

 田原は、このことを田原自身の経験に則して、こう書いている。

私にとって、母語と非母語の翻訳と、悲母語で言葉を書くことはどちらも重要だと思うが、もし二者択一をするなら、私は後者を選ぶ。なぜなら、非母語での執筆は言葉の冒険をする快感、あるいは創造する快感を与えてくれるからだ。

 「言語」ではなく「言葉」。田原は、それを選んだのである。

 

 

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