野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」(「イリプスⅢ」5、2023年10月10日発行)
野沢啓「吉本隆明の言語認識--『言葉からの触手』再読」が、これまでの「言語暗喩論」とほんとうに連続している(関係している)のかどうか、私にはわからない。
野沢の「言語暗喩論」を私なりに整理すると、こうなる。
ひと(野沢は「詩人」と限定し、詩と詩人を特権化しているか、私は「ひと」と読んでおく)が、直接的に自己のいのちを生きるとき、ひとはいのちの本質(まだ名づけられていない深奥・根源)と合致している。それは既成のことば(表象/表現の仕方)ではあらわすことができないから、ただ暗喩的にのみ表現される。
こう整理してみると、何のことはない、それはすでに誰それが言っていることのように思える。言い直せば、私はどこかで読んだこと(聞いたこと)がある誰それのことばを借りて野沢の言っていることを要約していることになる。誰それとあいまいに書くのは、私は野沢のように読書家ではないし、記憶力も悪いからだが、あ、こんな誰それの言ったことを、しかも私が知っているくらいだから多くのひと私より詳しく知っているだろうことをいくら書いてみたって、これじゃあ、つまらないね、というのが私の正直な感想である。
絶対真理は説明されるべきものではなく、暗示させられるものである、とか、真理はことばによっては表現され得ない。ただ、いのちが直接的に交渉するものである、というようなことは、たぶん、あらゆる「古典」から引き出しうる「哲学」だと思うが、私はこういう「結論(要約)」にはまったく興味がない。「結論(要約)」をひとつずつ解体し、ことばが動き出す場に戻りたいという欲望だけがある。
結論(論理の到達点)に関心がないから、私は平気で矛盾したことを書く。
つまり、「同一」を否定し、「論理」から自由になることが私が求めている「ことばの運動」だからである。
きのうだったか読んだ読売新聞に走り高跳びの選手のことが書いてあった。走り高跳びは、走ってきて、突然走るのをやめて上へジャンプする。跳ぶ前に走ることを「助走」というが、助走の力を借りた方が、その場で跳び上がるよりも高く跳べるというのはとてもおもしろくないだろうか。ひとの考えにも、何かそういうものがある。助走と同じ方向(たとえば、走り幅跳び)とは違った方向へ跳んでみせる。それもまた、ひとつの「運動」である。
関係ないことを書いたかもしれない。
書いているうちに、ほんとうは何を書きたかったのか、半分以上忘れてしまったが、別に「結論」を求めているわけではないので、私は気にしていない。
野沢は、私が変な「いちゃもん」をつけていると思うだろうけれど、私は野沢と共同で仕事をしたいわけではないから、まあ、気にしない。
今回の「いちゃもん」は、吉本の言う「文学作品」に対する野沢の把握の仕方である。野沢は「文学作品の運命は、生活のなかの運命とおなじに、大なり小なり物語をつくっていて、物語の起伏のなかにみつけだされるのだろうか?」という『言葉からの触手』のなか文を引用しながら、次のように書いている。
ここで吉本がイメージしている〈文学作品〉とは詩ではなく、物語(小説)であることは明らかだ。(略)あたりまえのことがあたりまえのように生起するのが一般的であるとしても、長い目で見れば、人生のなかに思いがけない転機やら不可解な事件・事故が起こってドラマチックな変転を余儀なくされることなどある意味では平凡な事実に属することである。物語(小説)はそうした人生一般を縮図のように時間空間を圧縮し、あたかもそこに〈意味の流れ〉があるかのように仮設したものである。そこには偶然があるのではなく、偶然の表情をした必然が立ちはだかっているにすぎないのである。そこにあるのは〈無意識の連鎖〉ではない。たしかに小説家にとっては叙述のなかで次なる叙述を最終的に決定している審級はことばへの意識であるだろう。しかしそれは叙述の審級が決定されれば、しばらくは叙述のスタイルが持続される、いわばひとつの転轍機の役割を果たすのが偶然のように見える意識の作業なのであって、物語(小説)はそうした文脈のなかでいくつもの転轍機が導入されながら進展するほとんど意識的な産物なのである。
ところが詩においてはこうした言語の散文性は本質的なものではない。ひとつのことば(あるいはことばのブロック)が偶然のような必然として生まれ、それが次にどういう形で展開されるべきなのかまったく見えないなかで、ことばは手探りの状態で次の言葉の到来が待たれている。
うーん。
次のことばの「到来を待つ」というのは、小説家もおなじだろう。どう展開するか、それがわかっている小説家はいないだろう。わからないことが起き、それと向き合ってことばを動かしていくとき、小説は動いていく。
「小説」に限らず、どんなことば(思想)であれ、「結論」がわかっていて、それに向かってただことばを整えていくということはないだろう。だからこそ、とんでもなく長くなったり、途中で終わったりするのだが、それでは途中で終わったからといって、そこには何も書かれていないかというと、そうではない。
野沢は「小説」を「物語」と同じものとしてとらえている。「小説(物語)」と書いたり「物語(小説)」と書いたりしているが、それと同じように、多くの詩の読者は詩のなかに「物語」を読んでいないか。詩のことばを詩人の生活と結びつけて、その「意味」を考えたりしていないか。詩のなかの登場人物と自分を重ね合わせて、何ごとかを考えたりしていないだろうか。哲学にしろ、ほかのあれやこれやの「ことば」にしろ、ひとは、そのことばに自分を重ね合わせないで、それを読むことはできないだろう。
それにねえ。
これは私だけかもしれないが、小説(散文)を読むとき、私は「物語(結論にいたるストーリー)」だけを読んでいるわけではないし、むしろ、そんなものには興味がない。(いわゆる「哲学」「思想」もおなじ。)たとえば近年でいちばん感心した小説に「コンビニ人間」があるが、私は主人公がどうなったか、結論がどうだったかなんか、ぜんぜん覚えていない。コンビニを中心として、ある世界を描くのに「音」を中心にして書いていたということしか覚えていないし、その「音を書く」ということに感心した。その「音を書く」ことが「小説(物語)」なのか「詩」なのか、あるいは「哲学」なのか「思想」なのか。もし、「コンビニ人間」を読み返すことがあったとして、そのときも私は「物語(の展開)」なんか気にしないで、ただ「音」を探して読むだろうなあ。私の聞いたことのない音があるか、聞いたことがある音ばっかりなのに、なぜ、私はその「ことば」に感心したのか、そのことを考えるだろうなあ。
それにしてもね。
「ここで吉本がイメージしている〈文学作品〉とは詩ではなく、物語(小説)であることは明らかだ。」と野沢は簡単に決定しているが、どうせなら「誰それの、どの小説」まで書いてほしかったなあ。そうでないと、私なんかは、いったいどういう小説を思い浮かべていいかわからない。
詩を特権化したことばを読むたびに、私は、詩に限らず、ことばはみんな何らかのおなじ動きをしており、詩を特権化することへの疑問を感じるのである。
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