Joaquin Llorens Santa のマドリッドで個展が始まった。私は見に行けないのだが、ホアキンが写真を送ってくれた。少し紹介と感想を書く。(写真は、一部、ホアキンが撮ったものではないものを含む。)
6月にアトリエで見た制作途中の作品は、赤く塗られていた。よく似た白いバージョンのものもある。赤い方が好きだ。
ホアキンは黒い色の服がとても似合う。白い色も似合う。赤い色は似合わないかもしれない。だからこそ、赤い色の作品が強く響いてくる。もうひとりのホアキンという感じがする。
6月にみたときは、制作途中だから、もちろん色はない。
彩色された作品が何点かあったので「これにも色を塗るのか」と聞いた。ホアキンは「そうだ」と答えた。「赤」と答えたのか、「青」と答えたのか、忘れてしまった。「白」ではなかったと思う。「白」は純粋すぎて、彩色されていないものよりも素裸を見ている感じになるかもしれない。
この作品をアトリエで見たときは、まるで素裸のホアキンを見たようで、少しびっくりした。素裸といっても、服を脱いだ素裸ではなく、服を着る前の素裸。つまり、生まれたばかりの赤ちゃんのような、はじけるような輝き。裸なのに旗かを意識しない「強さ」を強く感じた。見た瞬間、「あ、この作品が好きだなあ、これいいなあ」と叫んだことを思い出す。
赤く塗られたいま、その作品は、とてもすましている。成長して、気取っている。
ホアキンが客と話している。少し離れて「ぼくはここにいるよ」と、人が話しかけてくれるのを待っている。見てくれるのを待っている。そういう感じがする。
横顔なのではっきりしないが、壁を背にした右側の女性はホアキンの連れ合い。そういうことも、この作品に反映して、私は「社会にデビューした子供」のように見てしまうのかもしれない。
作品は、どこにおかれるか、誰に見られるかによって、表情を変える。この展覧会では、「無防備」な感じは消え、自分の存在を静かに、しかししっかりとアピールしている。うーん、マドリッドの会場で「見に来たよ(会いに来たよ)」と言えたらいいのになあ。
6月の、制作途中の作品をアップしておく。
ホアキンが隣にいるときと、私が隣にいるときでは、やはり違って見える。
ホアキンが隣にいると、作品は安心した顔をしている。
まず、これまで紹介してこなかった作品。
ふたつの曲線が、あいだに空間を抱えている。空間は上部で開かれている。
二羽の白鳥に見える。左側の白鳥は空を見ている。右側の白鳥は、左の白鳥の顔を見ている。もちろん、白鳥はこんな「線」ではできていない。けれど、それが白鳥に見える。あいだにある「空間」が白鳥のしなやかな「肉体」に感じられるのだ。
ふたつの線が、いまそこにないものを、浮かび上がらせている。
出会った瞬間、(あるいは別れた瞬間ということもあるかもしれない)、こころのなかにぱっとはじける何か。
そういうものを感じさせる。
曲線のリズムがとてもいい。見る角度によって、強さも違って見える。こういう変化を見ると、やはり美術館に足を運ばないことには何もわからない、と思ってしまう。
このダンスする彫刻の左右に、赤と青で、おなじシリーズの作品が見える。私は赤の方が好きだ。青の方は、私の知っているホアキンの印象とは違う。もちろん青の方が好きという人もいると思う。こういう「好み」の変化は、その日の気持ちによっても違う。それが、また楽しいのだが。
(日食を含む三点)
作品は見る角度によって変わる。そのことをこの2枚の写真は教えてくれる。
左のふたつの局面は、私は波だと思っていた。いまでも波だと思うが、その動きの印象は、以前、フェイス文句で見たときとは大きく異なる。絡み合い、戦っている。ただしその戦いは官能の戦いだ。より強い愉悦を求めて、激しく肉体をうねられている。
「日食(月食)」に見えた作品も、単なる重なりではない。重なることで、隠していたものが見える。重なりを突き破って、官能が光りを発する。「出会い」は、かならず官能を呼び覚ますものなのか。
奥の曲面の作品も官能的だ。女を背後から犯している。ペニスは女のからだを突き抜けてしまっている。女は男を振り返りながら、悦びとも苦しみともなづけられない瞬間の到来を告げている。(この呼応は、最初に触れた白鳥に似ている。)壁に映った影も美しい。
この部屋の三点は、海(波)と空(月と太陽)と地上(男と女)がセックスし、命を生み出す部屋なのだ。
半円と柱が組み合わされた作品は、何だろう。とても素朴だ。セックスと書いたあとだからかもしれないが、私は、子供を思い出した。三頭身の、やっと立つことができた子供。
また、月に照らされて浮かび上がる木のようにも。その木は、半分闇に溶け込んで隠れている。木は月に照らされながら、月の形をあらわしている。対話している、とも思った。
この作品は、子供の楽隊を思わせる。直線と曲線、面と線の組み合わせが楽しい。音楽が聞こえてくる。「子供の」という印象は、はやり全体のバランスが三頭身を想像させるからだろうか。
ホアキンの作品の中には「血」が流れている。鉄が「血」として生きている。それが「子供」になったり、官能を追い求める「大人」になったりして動いている。「子供」を含むからかもしれないが、見ていると、いつもふっと笑いがこぼれてしまう。純粋さを感じるのだ。純粋さに、わくわくしてしまう。
6月にアトリエで見た制作途中の作品は、赤く塗られていた。よく似た白いバージョンのものもある。赤い方が好きだ。
ホアキンは黒い色の服がとても似合う。白い色も似合う。赤い色は似合わないかもしれない。だからこそ、赤い色の作品が強く響いてくる。もうひとりのホアキンという感じがする。
6月にみたときは、制作途中だから、もちろん色はない。
彩色された作品が何点かあったので「これにも色を塗るのか」と聞いた。ホアキンは「そうだ」と答えた。「赤」と答えたのか、「青」と答えたのか、忘れてしまった。「白」ではなかったと思う。「白」は純粋すぎて、彩色されていないものよりも素裸を見ている感じになるかもしれない。
この作品をアトリエで見たときは、まるで素裸のホアキンを見たようで、少しびっくりした。素裸といっても、服を脱いだ素裸ではなく、服を着る前の素裸。つまり、生まれたばかりの赤ちゃんのような、はじけるような輝き。裸なのに旗かを意識しない「強さ」を強く感じた。見た瞬間、「あ、この作品が好きだなあ、これいいなあ」と叫んだことを思い出す。
赤く塗られたいま、その作品は、とてもすましている。成長して、気取っている。
ホアキンが客と話している。少し離れて「ぼくはここにいるよ」と、人が話しかけてくれるのを待っている。見てくれるのを待っている。そういう感じがする。
横顔なのではっきりしないが、壁を背にした右側の女性はホアキンの連れ合い。そういうことも、この作品に反映して、私は「社会にデビューした子供」のように見てしまうのかもしれない。
作品は、どこにおかれるか、誰に見られるかによって、表情を変える。この展覧会では、「無防備」な感じは消え、自分の存在を静かに、しかししっかりとアピールしている。うーん、マドリッドの会場で「見に来たよ(会いに来たよ)」と言えたらいいのになあ。
6月の、制作途中の作品をアップしておく。
ホアキンが隣にいるときと、私が隣にいるときでは、やはり違って見える。
ホアキンが隣にいると、作品は安心した顔をしている。
まず、これまで紹介してこなかった作品。
ふたつの曲線が、あいだに空間を抱えている。空間は上部で開かれている。
二羽の白鳥に見える。左側の白鳥は空を見ている。右側の白鳥は、左の白鳥の顔を見ている。もちろん、白鳥はこんな「線」ではできていない。けれど、それが白鳥に見える。あいだにある「空間」が白鳥のしなやかな「肉体」に感じられるのだ。
ふたつの線が、いまそこにないものを、浮かび上がらせている。
出会った瞬間、(あるいは別れた瞬間ということもあるかもしれない)、こころのなかにぱっとはじける何か。
そういうものを感じさせる。
曲線のリズムがとてもいい。見る角度によって、強さも違って見える。こういう変化を見ると、やはり美術館に足を運ばないことには何もわからない、と思ってしまう。
このダンスする彫刻の左右に、赤と青で、おなじシリーズの作品が見える。私は赤の方が好きだ。青の方は、私の知っているホアキンの印象とは違う。もちろん青の方が好きという人もいると思う。こういう「好み」の変化は、その日の気持ちによっても違う。それが、また楽しいのだが。
(日食を含む三点)
作品は見る角度によって変わる。そのことをこの2枚の写真は教えてくれる。
左のふたつの局面は、私は波だと思っていた。いまでも波だと思うが、その動きの印象は、以前、フェイス文句で見たときとは大きく異なる。絡み合い、戦っている。ただしその戦いは官能の戦いだ。より強い愉悦を求めて、激しく肉体をうねられている。
「日食(月食)」に見えた作品も、単なる重なりではない。重なることで、隠していたものが見える。重なりを突き破って、官能が光りを発する。「出会い」は、かならず官能を呼び覚ますものなのか。
奥の曲面の作品も官能的だ。女を背後から犯している。ペニスは女のからだを突き抜けてしまっている。女は男を振り返りながら、悦びとも苦しみともなづけられない瞬間の到来を告げている。(この呼応は、最初に触れた白鳥に似ている。)壁に映った影も美しい。
この部屋の三点は、海(波)と空(月と太陽)と地上(男と女)がセックスし、命を生み出す部屋なのだ。
半円と柱が組み合わされた作品は、何だろう。とても素朴だ。セックスと書いたあとだからかもしれないが、私は、子供を思い出した。三頭身の、やっと立つことができた子供。
また、月に照らされて浮かび上がる木のようにも。その木は、半分闇に溶け込んで隠れている。木は月に照らされながら、月の形をあらわしている。対話している、とも思った。
この作品は、子供の楽隊を思わせる。直線と曲線、面と線の組み合わせが楽しい。音楽が聞こえてくる。「子供の」という印象は、はやり全体のバランスが三頭身を想像させるからだろうか。
ホアキンの作品の中には「血」が流れている。鉄が「血」として生きている。それが「子供」になったり、官能を追い求める「大人」になったりして動いている。「子供」を含むからかもしれないが、見ていると、いつもふっと笑いがこぼれてしまう。純粋さを感じるのだ。純粋さに、わくわくしてしまう。