詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「遠くへ」

2011-07-04 19:50:51 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「遠くへ」(朝日新聞2011年07月04日夕刊)

遠くへ

心よ 私を連れて行っておくれ
遠くへ
水平線より遠く
星々よりももっと遠く
死者たちと
微笑(ほほえ)みかわすところができるところ
生まれてくる胎児たちの
あえかなる心音の聞こえるところ
私たちの浅はかな考えの及ばぬほど
遠いところへ 心よ
連れて行っておくれ
希望よりも遠く
絶望をはるかに超えた
遠くへ

 「遠く」の定義がおもしろい。水平線は遠い。星は遠い。死者もまた遠い。死者と微笑みを交わす――これはむずかしい。死者は、かならずしも微笑みをかわしたいひとばかりではない。「幽霊」「お化け」という怖い死者もいる。谷川の死者には「幽霊」「お化け」は入っているか。いないかもしれない。「恨めしい人」(恨みを買っている人)は、除外されているかもしれない。きっと、生きていた時は親しかった人、なつかしい人のことを念頭においていると思う。でも、死んでいるのだから、生きている「いま/ここ」からすると遠いに違いない。生きている限り到達できないところだから、星より遠いかもしれない。
 では、「生まれてくる胎児たちの/あえかなる心音の聞こえるところ」はどうだろう。胎児がいる「子宮」なら、遠いとはいえないかな? 妊娠している女性の体内。それは男からは「遠い」が妊娠している女には「遠い」とは言えない。
 でも、谷川の書いているのは、男と女で「遠い」が違ってしまうところではない。「生まれてくる胎児」は、これから嬰児として生まれてくる胎児のことではない。胎児になるまえ、胎児以前の「いのち」が「未生」の状態の「場」である。子宮よりももっと「肉体」の「内部」、特定できない「場」である。それは想像力でのみとらえることのできる「場」である。
 想像力だけがとらえることのできる「場」――として見つめ直すと、「死者たちと/微笑みかわすところができるところ」というのもまた、同じである。
 で、この想像力だけがとらえる「場」を、谷川は「考えの及ばぬところ」と言い換えている。
このとき「想像力」って、何?
いや、このときというより、想像力って何? 
何を使って「想像する」? たぶん、「頭」で、私たちは「想像」する。「考える」ことと「想像する」ことは、どこかでつながる。
けれど、この「考え」、「頭」で「想像」することを、谷川はそんなに尊重していない。そんなものにはきっと「限り」がある。
それよりも「遠くへ」。
何によって?
「心」だ。
谷川は、最初から「心よ」と呼び掛けている。「頭」ではなく「心」で「想像」すれば、それは「頭」の「想像」より「遠く」なるのだ。
それは、希望・絶望の区別を超えた「遠く」。

わからないね。希望と絶望の区別がないなんて、そんなこと、ある? だが、あるのだ。それは、「生まれてくる胎児たちの/あえかなる心音の聞こえるところ」。胎児が胎児になる前の準備をしているところ、未生の胎児が動き始めているところ。
「いのち」の始原。「いのち」の原始。
「いのち」が生まれてくる――その動きのはじまる場所、「いのち」以前。しかし、それはしっかり「いのち」と結びついている。
「遠く」は自分の「いのち」をさかのぼって、胎児よりももっと以前の「場」である。そしてそれは、「頭」ではなく、「心」ですすんでいく「場」なのである。水平線なら船で行ける。星ならロケットで行ける。けれど、「いのち」の未生の場は、そういう「頭」でつくった「技術」では行けない。だから「心」に頼るのだ。「心」にすがるのだ。
福島第一原発に象徴される「頭」の技術が問題になっているいま、谷川は「頭」ではなく「心」を基本にした生き方を、そっとささやいているのかもしれない。








谷川俊太郎詩選集 1 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社

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1 コメント

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Unknown (あや)
2011-07-04 20:03:01
遠くへ連れて行って欲しくなりました。心よ、ではなく、心を。
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