『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
西脇のことばは自在に動く。
「トーエンメイ」からつづく4行は、改行と句読点の関係が「ずれ」ている。句読点は行のなかにあり、そしてそれは書かれないまま、次にくることばと密着している。切断があるべきところに切断がない。そして、それが
という形に展開する。
この「君」ってだれ? パオという青年?
さらに、
と飛躍する。
句読点の乱れは、飛躍のための準備なのだ。乱調によって、ことばのあいだに不思議な「破れ目」ができ、そこからことばが噴出する。この、「破れ目」から噴出することばを西脇は「音楽」と呼んでいるように思う。
君(パオという青年)は正しい植物である--ということばの意味を明確につかむためには、詩をさかのぼらなければならないのだが省略する。
「意味」よりも、エリオットからトーエンメイ(陶淵明)への寄り道がおもしろい。そして、その寄り道には、パオ青年は関係がない。ただ西脇が寄り道をしただけなのだ。その寄り道の理由を、「遠い海から送られてくる/何か悲しい音調」のせいにしている。
聞こえてしまうのである。陶淵明ではなく、「トーエンメイ」という「音」が。西脇はその音を思わず書き留め、それからその音に合わせて「和音」をつくっている。メロディー(音の揺れ)をつくっている。それが「トーエンメイ」からつづく句読点のみだれた(?)音の動きである。
西脇のことばは自在に動く。
やはりこの辺にパオという青年がいた
早くからエリオットを読んでいたが
いまはヒヨシの崖の上で
菊をつくつている
それは教会の祭壇を飾るのでなく
トーエンメイを憶うからであろう
そうでない彼はトーエンメイは
知らないと思うもしちがつていたら
ごめんなさいきみは正しい生物であるからだ
人間の思考はいつも
どこか遠い海から送られてくる
何か悲しい音調にひたされている
それは天体的宿命の音楽である
「トーエンメイ」からつづく4行は、改行と句読点の関係が「ずれ」ている。句読点は行のなかにあり、そしてそれは書かれないまま、次にくることばと密着している。切断があるべきところに切断がない。そして、それが
ごめんなさいきみは正しい生物であるからだ
という形に展開する。
この「君」ってだれ? パオという青年?
さらに、
人間の思考はいつも
と飛躍する。
句読点の乱れは、飛躍のための準備なのだ。乱調によって、ことばのあいだに不思議な「破れ目」ができ、そこからことばが噴出する。この、「破れ目」から噴出することばを西脇は「音楽」と呼んでいるように思う。
君(パオという青年)は正しい植物である--ということばの意味を明確につかむためには、詩をさかのぼらなければならないのだが省略する。
「意味」よりも、エリオットからトーエンメイ(陶淵明)への寄り道がおもしろい。そして、その寄り道には、パオ青年は関係がない。ただ西脇が寄り道をしただけなのだ。その寄り道の理由を、「遠い海から送られてくる/何か悲しい音調」のせいにしている。
聞こえてしまうのである。陶淵明ではなく、「トーエンメイ」という「音」が。西脇はその音を思わず書き留め、それからその音に合わせて「和音」をつくっている。メロディー(音の揺れ)をつくっている。それが「トーエンメイ」からつづく句読点のみだれた(?)音の動きである。
西脇順三郎コレクション (1) 詩集1 | |
西脇 順三郎 | |
慶應義塾大学出版会 |