和辻哲郎「鎖国」の終の方に、こういう文章がある。
一五八二年二月、ワリニャーニが少年使節たちをつれて長崎を出発したあとの日本では、九州でも近畿地方でも新しい機運が五月の若葉のように萌え上がっていた。
後半の「五月の若葉のように萌え上がっていた」は比喩であり、哲学書や学術論文には不向き(?)な表現かもしれない。しかし、私はふいにあらわれるこういう表現が好きである。そこには「感情の事実」が書かれている。和辻が、少年使節がヨーロッパへ出発したあとの日本の雰囲気に「興奮」していること、その時代をとても希望に満ちたものとみていることがつたわってくる。「新しい機運が盛り上がっていた」も感情をつたえるかもしれないが、まだ「弱い」。「五月の若葉のように萌え上がっていた」には、それこそ、和辻の感情が「五月の若葉のように萌え上がってい」ることを教えてくれる。何か「肉体」を見ている(読んでいる)感じ、「若葉」を見たときに興奮する「肉体」の感動そのものを見ている感じがする。
それは、次の文章も同じ。
宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、--それは前の年にクエリヨに特許状をあたえたときの秀吉の腹であった。
この「腹」は「思い」(考え)と言いなおすことができるが、「考え」では何か「弱い」。そこにいる「人間(肉体)」が見えてこない。「腹」ということばは「肉体」そのものを感じさせる。この「腹」ということばをつかうとき、秀吉の腹と和辻の腹はつながっている。つまり、和辻は秀吉の「考え」を「頭」で理解しているのではなく、「肉体(腹)」で理解し、「共感」している。
それこそ、私は「こころ(精神)は存在しない」を、こういうときに実感するのである。存在するのは「肉体」である。「頭」が何か考えるのではない。「肉体」、たとえば「腹」が考えるのである。それは、ここではたまたま「腹」だが、あるときは「手」であり、「指」かもしれないし、「足の裏」かもしれない。どこでもいいが「肉体」が関与しない思考、感情など存在しない。そうしたことを、私は「感じる」。人間が何かを考えるときに必要なのは「肉体」である。
それは「鎖国」に対する和辻の次の表現、なぜ「鎖国」政策が生まれたのかという次の表現からも、間接的(?)に感じるのである。外国との積極的な交渉ができなかったのは……、
為政者の精神的怯懦のゆえである。
「肉体的な弱さ」ではない。「精神的怯懦」に原因がある。「精神的怯懦」が動くとき、「肉体」は動いていない。そのとき人間は「死んでいる」のである。逆に言えば、「肉体」が動き、世界に働きかけるとき、人間は「生きている」。そして、その働きかけを実際に表現するものとして、「肉体」と「ことば」がある。「ことば」は「肉体」に対して「(論理的)可能性」を教える。「精神(こころ)」など、気にしてはいけない。そんなものは「存在しない」と否定しなければ、何もできない。これは「暴論」かもしれないが、私が感じるのは、そういうことだ。
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