詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか

2024-12-11 23:36:28 | 現代詩講座

堤隆夫「さびしい町を発とう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年12月02日)

 受講生の作品ほか。

さびしい町を発とう  堤隆夫

あの日が もう 帰って来ないのなら
私には もう なあーんにもない
もう 空蝉の木漏れ日の水面に 戻ろう
幼い日々の 言葉を知らなかった あの日の 木賊色の水面に戻ろう
不安と期待が入り混じった 薄紅の春の昼下がりのひと時
酩酊して崩れ落ちた あの日の思い出は 苦いなみだの雫
半分だけ幸せだったあの日は もう 帰っては来ない
一年前の受話器のあなたの声は もう 聞けない
姿は見えなくても 声だけでも もう一度-----
詩とは 思い出の表現なのか?
焦がれて焦がれた 私の さびしい町
私は 今 空の水面に浮かぶ 根なし草
こころとは さびしい町
こころとは 戻ることのできない焦がれ町
さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで
さあ 肺胞に青息吐息を詰めこんで なみだの水筒を持って 発とう
生きるために なあーんにもない黙示録の逝きし世に向かって 発とう

 「ことばの響きが美しい。音楽が響く」「歌の歌詞になる。青春の歌。半分だけ幸せの半分が印象的」「誘いを感じる。いままでの作品とは色を異にしていて驚いた。力が抜けている」「半分からの四行が印象に残る。最後の三行もいい」「なみだの水筒が、とてもいい。これがタイトルだったらいいなあ」
 いままでの作品と印象が違うのは、ひとつには、反語的質問がないからかもしれない。発とう、という呼びかけが特徴的だ。「歌詞」という視点から見れば、昼下がりのひと時、苦いなみだの滴、焦がれ町のようなことばの動かし方が「歌詞」に似ているかもしれない。
 もし「歌詞」に徹するのだとすれば、「詩とは 思い出の表現なのか?」という一行はない方がいいかもしれない。ここには堤の「反語的質問」のスタイルが残っている。
 (「涙の水筒」をタイトルにしたら……という受講生のアイデアにのっかって、私も、ちょっとこうしたらどうなるかな、ということを提案してみたい。)
 ここを一行空きにして連を変える。最後の部分も、最後の二行を三連目にするとおもしろいかもしれない。意味的には「さびしい町の残像を 鈍色の雑嚢に詰めこんで」は三連目のことばにつながるもの、つまり、そこに一行空きを入れると、「連またがり」になるのだが、その「不自然さ」が逆に最後の二行を際立たせることになるかもしれない。
 これは私が頭のなかだけで考えたことなので、実際に書いてみる(印刷してみる)と違うことを思うかもしれないが。
 スタイルをかえてことばを動かしてみるのも、おもしろいかもしれない。

水、ひろしま  青柳俊哉

詩、目に見えないかなしみ
世界、目に見えないうつくしみ
すべてに行き渡って水がうつし水が記している
 
ドームの跡に佇む水の目の少女
黄色い星の光を瞳にあふれさせるゲルマニアの少年
水牛とともに涙を泳ぐ女
 
雪は黒い塵にふれて初めて結晶する
鐘を打つように見えない世界を水の手が響かせる
その音が街の涙の暈を増す
 
外側を詩がながれる 
かなしみよって世界は
償われている

 「現在の広島の川から、かつての残酷な光景を想像するのはむずかしい。最終連、悲しみがあってひとは産まれる。残酷を知っているのに人間はそれを繰り返してしまう」「何度も声に出して読みたい。詩は悲しみの表現。エモーショナル」「タイトルが美しい。水が様々に表現されているが、詩と悲しみと水が一体になっている」
 ことば、音の関係について考えたい。かなしさ、うつくしさではなく、かなしみ、うつくしみ、と書く。その最後の「み」の音のなかに「水」の「み」が隠れている。そのためだろうか、三行目「水がうつし水が記す」のなかに「うつしみ(現身)」が隠れているように感じられる。いきているひと、しかし、死んでしまったひと。死んだけれど、生きている姿を思い出さずにはいられない、そのいのち。そのゆらぎのようなものがある。
 二連目、涙の目の少女ではなく、水の目。それが、そのあと水を泳ぐではなく、涙を泳ぐ。水と涙が交錯する。水即涙、涙即かなしみ即うつくしみ。

待ち時間  杉惠美子

冬が進んでいく朝
私は麓の道をゆっくり歩いてみます
一方通行ではない道を探します
あれこれ つぶやきながら
耳を澄ましてみます


私の輪郭が
ほどよく 柔らかな光の中に
貌となって
現れ
少しずつ真ん中に集まっていく
そんな
時を待って
ゆっくりと 歩いてみます


真ん中に集まった灯りは
小さくても消えないように
私の中で 灯しつづけます


赤い椿の花の蕾も
だんだん 膨らんできています

 「貌(かたち)という感じのつかい方がいい。一連目の、一方通行から三行がいい。三連目の、真ん中に集まるがつかみきれない、それが蕾に変わっていくところがいい」「冬から春への時間の流れと心の流れが重なる。一方通行とあれこれの対比がいい」「三連目の灯りということばに作者の希望を感じた。詩の可能性が広がる」「三連目の、私の中に向かって一、二連目が用意されている。少しずつ、だんだん、変わる。感情の高まりを感じる」
 私は三連目の、少しずつ真ん中に集まっていくの「いく」ということばに少し驚いた。四連目で「私の中」ということばが登場するが、集まったものが私の中で形をとるならば、それは、集まって「くる」だと思う。しかし、三連目では「輪郭」ということばが象徴するように、まだはっきりとは「私の中の「中」が意識されていない。何か、客観的に対象を見ている感じが残っている。そのために「いく」になっている。しかし、集まるに従い、それが「輪郭」ではなく「中」と結びつく。こういう変化を描くには、やはり「いく」がいいのだろう。
 「私の中」、つまり「主観」になったあと、それが椿の蕾となって再び客観化される。蕾は風景ではなく、象徴になる。
 象徴(あるいは比喩)が、どうやって誕生するか。そのときの「無意識」の動きが「いく」ということばのなかに隠れている。こうしたことが影響して、受講生も季節の変化、時間の流れだけではなく、「心の流れ」を感じたのだと思う。

クリスマスツリー  宮尾節子

はじめに言葉がありました。
「今夜、わたしはモミの木になる」
つぎに、時が言いました。
「じゃあ、わたしはクリスマスになるね」
つぎに、涙が言いました。
「じゃあ、わたしは全部ガラス玉に変わるわ」
つぎに、思い出が言いました。
「わたしは、良い物だけ取り出して
一つずつ枝に飾っていく」
泣きやんだ瞳が
輝きながら、訴えました。
「わたし、てっぺんでお星様になりたい」
みんなが賛成したとき
耳元でそっと、悲しみが囁きました。
「だったら、最後にわたしが
喜びにかわるね」

街のなかでも家のなかでも
今日、世界じゅうでいちばん幸せ者の
クリスマスツリー。

あなたが、一度倒れたモミの木だって
誰も覚えていない。

 ここには書かなかったが、谷川俊太郎追悼の記事を読むなどして、あまり作品に触れる時間がなかったのだが。いろいろな変化のなかで「悲しみ」が「喜び」という正反対のものにかわるところに注目が集まった。
 その三行もいいが、最終連が、複雑でとてもいい。
 「誰も覚えていない」が作者は知っている、つまり覚えている。直前に「倒れた」という表現があるが、ほんとうに「倒れた」のか「倒されたのか(伐られたのか)。そういうことを考えさせる。「誰も覚えていない」という反語的表現が、読者を目覚めさせる。非常に深い。


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