詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・シュレシンジャー監督「真夜中のカウボーイ」(★★★★)

2011-04-24 13:30:24 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・シュレシンジャー 出演 ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト

 この映画の主役は誰なんだろうか。ダスティン・ホフマン? ジョン・ヴォイト? そうではなくて、彼らのまわりを瞬間的に通りすぎていく「無名の人々」ではないだろうか。ジョン・ヴォイトの「田舎」っぽい感じ、ダスティン・フホマンのホームレスは、たしかにリアルだけれど、それはリアルという「演技」である。
 これに対してジョン・ヴォイトが働いていたレストラン(?)の従業員は役者なのかもしれないが、「演技」ではなく、そこに「いる」人間である。「いま」「ここ」にいる人間は、ただ「いま」「ここ」にいる。ジョン・ヴォイトのように「夢」を語らない。ダスティン・ホフマンのように「夢」を語らない。「いま」「ここ」から出て行って、「いつか」「どこか」(それはニューヨークであり、マイアミなのだが……)、別の暮らしをするという「夢」を語らない。ここには「夢」を語る人間と、「夢」を語らない人間が複雑に出てくる。いつでも、どこでもそうだが、「夢」を語る人間というのはくっきりとみえるものである。「夢」へ向かって動くということが「人間形成」の基本なのかもしれない。ひとに(映画の場合なら、主人公に)共感するとき、観客は登場人物の「夢」に共感し、その「夢の挫折」に人生を重ね合わせ、カタルシスを虚構のなかで体験しているのかもしれない。
 この映画のなかでも、ふたりの男の「夢」、「夢の挫折」に自己を重ねて何かを感じることはできる。できるけれど……。
 それよりも、彼らの「まわり」がおもしろい。瞬間瞬間に登場する「ひとびと」がとてもおもしろい。ジョン・ヴォイトが働いていたレストランのことは少し書いた。そこではジョン・ヴォイトは皿洗いをしている。他人がどんな「ゆめ」をみているか語られない。誰もジョン・ヴォイトの夢にも気を配らない。「いま」「ここ」から動かない。
 そこを飛び出してジョン・ヴォイトはニューヨークへ向かうのだけれど、その移動手段として「バス」をつかっているのが、これがまたまた、とてもおもしろい。「バス」は地上を動く。地上を動くから、どうしたってバスが止まるたびに「地上」(いま、ここ)がそこに進入してくる。ジョン・ヴォイトは「いま」「ここ」と出会いながらニューヨークへ行くのである。ジョン・ヴォイトにガムをくれ、という母親がいて、また、ジョン・ヴォイトのラジオがうるさいという男がいる。ジョン・ヴォイトの夢と挫折を描くことがこの映画の主眼なら、このバスの移動シーンはいらない。長すぎる。いきなりニューヨークから始まってもいいのだが、この映画はそうしない。主人公の夢と挫折は「狂言回し」で、ほんとうの「主役」は、「いま」「ここ」に生きている「人間」、「夢」を語らない人間なのである。そういう視点からみていくと、この映画は「ドキュメンタリー」なのである。ある個人の「夢」にそってその行動を描く映画ではなく、「いま」「ここ」に何があるか、何が動いているか、それを克明に記録した映画なのである。
 その「記録」される人間のひとりがダスティン・ホフマンなのだが、彼にもまた「夢」があるので、その「夢」の分だけ視界(視野)がかぎられるが、「夢」を語らずに登場してくる「群衆」がとてもいきいきしている。犬におしっこをさせている女、ジョン・ヴォイトの田舎丸出しの格好を見下す女、歩道に倒れているビジネスマン(?)、それを気にかけることなく歩いているひとびと。その「いま」「ここ」と「ひと」「ひと」の交錯が、ニューヨークなのだ。ジョン・ヴォイトは金持ちの女を相手にセックスをして金を稼ごうと思っているのだが、そんな「夢」は見え透いていて、誰も相手にしない。それがニューヨークなのだ。「夢」の相手をしてくれるひとなどいない。「夢」をいっしょに体験してくれる(夢をささえてくる)ひとなど、どこにもいないのが「現実」というものかもしれない。だからこそ、その孤独のなかで、ジョン・ヴォイトはダスティン・ホフマンと出会ってしまう。--これが、まあ、この映画の「ストーリー」といえば「ストーリー」だけれど、その「ストーリー」よりも、「まわり」がおもしろい。いきいきしている。
 特に今回見なしおしておもしろいと感じたのは、ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンがデリかなにかで食べているとき、カメラをもった男と女が入ってきて、ジョン・ヴォイトをパーティーにスカウトし、それからつづくパーティーである。ジョン・ヴォイトが田舎を捨ててニューヨークへ出てくるとき「バス」を利用した、それが「地上」を走ること--いわば、「地続き」であることはすでに書いたが、ここでも、あらゆることが「地続き」なのだ。デリへ無造作に入ってきて、無断で写真を撮り、何もいわずにチラシを置いていく。「地面」を離れずに、「いま」「ここ」が、人間の動きによってミックスされる。「いま」「ここ」にいる人間の「地上」を離れないミックス--それがニューヨークで起きていることなのだ。誰が誰であるかわからない。すべての人間が「無名」にもどって、マリフアナで「自己」を解放し、誰かと出会う。そして、その誰かから、そのとき、その場で何かをもらって、そのまま動いていく。「夢」--つまり、「計画」はない。「いま」「ここ」をエネルギーにしているだけである。
 ニューヨークの「深奥」の「ドキュメンタリー」。「ドキュメンタリー」であるからこそ、ダスティン・ホフマンの解体前のビルでの暮らしがいきいきする。その暮らしに「夢」はない。そこにあるのは「現実」だけである。そして、ダスティン・ホフマンは転んだことをきっかけに歩けなくなるが、その歩けなくなる、動けなくなるということに彼が絶望するのは、それが「ドキュメンタリー」だからである。「いま」「ここ」で動き回る、動き回ることでかろうじて「他者」の攻撃(?)から身を守っている。ビルの解体が実際に始まれば、また次の解体予定のビルへ動いていくということで生きていく、ということができなくなる。「いま」「ここ」を動き、そこに何らかの「すきま」を見つけて、そこに身を置くということができなくなる。
 ふたりはマイアミへ向かう。その移動手段は、またしても「バス」である。いつでも、どこでも降りられるバス。(飛行機に比べて、という意味だが)。だが、降りることなくバスの旅はつづく。最後に、ダスティン・ホフマンは死んでしまうのだが、彼の目は開いたままである。バスの運転手がジョン・ヴォイトに「目を閉じてやれ」という。これは、なかなか「意味深い」せりふである。もう、「現実を見させるな」ということになる。「現実」を見るから、「夢」も見る。ダスティン・ホフマンは現実に目を開いたまま「夢」を見ていた。(父親が靴磨きで体を傷つけて死んで行ったという現実を見ながら、マイアミの夢を見ていたのだ。)その目を閉じたからといって「現実」そのものがなくなるわけではないけれど、ダスティン・ホフマンは見なくてすむ。「現実」を見なければ、きっと「夢」の形も違ってくるだろう。楽になるだろう。
 あ、でも、運転手は、どうしてそんなことを知っていたのだろう。何人ものを人間をマイアミに運びながら、知らず知らずに「いま」「ここ」で何が起きているのか、知ったのかもしれない。
 そんなことよりも、なおおもしろい(?)のは、ダスティン・ホフマンの死を、バスの乗客がのぞきこむことである。気持ち悪がったりせずに、「いま」「ここ」で起きていることを--それはつまり、「いつか」「どこか」で自分に起きることなのだが、それをのぞきこむことだ。ひとは誰でも、「いま」「ここ」で起きていること、そして「いつか」「どこか」で起きることを知りたい。「夢」を語ることよりも「現実」に吸い込まれるものなのだ。
 「ドキュメント」のおもしろさが、ここにある。



 ドキュメントに拮抗するための演技。ダスティン・フホマンは、そのことを知っていたのかもしれない。この映画がドキュメントの性質をもっていることを脚本から読みとっていたのかもしれない。彼はこの映画のなかで足に障害をかかえた男を演じているが、それは最初から脚本に設定されていたことなのだろうか。どうも、そうとは思えない。あるいは、映画を撮り進む過程で、監督が役所の設定をかえたのかもしれないが、「いま」「ここ」、そして「地上」(地続き)ということを「肉体」でドキュメントにするには、足の障害はとてもリアルである。ジョン・ヴォイトがダスティ・ホフマンとの最初の夜、ブーツにこだわること、女と寝たあとブーツに香水を振りかけること、ダスティン・ホフマンの父が靴磨きだったこと--そういう細部の積み重ねも、ドキュメントをひとつの方向にしっかり定着させる。ニューヨークなのに摩天楼を感じさせない映像も、「いま」「ここ」「地上」のドキュメントの要素になっている。
 いろいろ書いていけば、この映画が「ドキュメント」であることがもっとはっきりするかもしれない。細部がともかくていねいに撮られた映画である。細部にきちんと自己主張させている映画である。
      (2011年04月23日「午前十時の映画祭」青シリーズ12本目、天神東宝6)


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