詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(3)

2011-04-24 23:59:59 | 詩集
永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』(3)(思潮社、2011年04月25日発行)

 語ること、ことばにすることよって、「わたし」が「わたしではなくなる」ということは誰でもそうかもしれない。特に、作家とか、詩人と、ようするに「もの」を書いているひとなら誰でもそうかもしれない。「わたし」が「わたしではなくなる」ということばの体験を書いているから詩人であり、作家なのだ。それは永島卓だけではない--そう言われると、私は何も言えなくなる。
 でも、言いたい。
 「わたしがわたしではなくなる」ということばの運動--その運動の特徴としていろいろあると思うが、永島の場合、それは「呼吸」(息継ぎ)という「肉体」的な運動と硬く結びついている。「音」「リズム」と密接な関係がある。「声」と関係がある。
 私が永島の詩を読んで最初に感じるのは、私とは呼吸の仕方が違うということである。息継ぎの仕方が違うということである。そして、その呼吸、息継ぎの仕方が違うところに、永島の肉体を感じ、あ、こんなリズム、音を肉体に響かせることでことばを暴走(?)させるのか、と思うのである。
 「音」「リズム」「声」と「意味(思想?)」は関係がない、「論理」とは関係かないというひともいる。しかし、私は「音」「リズム」「声」こそが「思想(肉体)」と関係かあると信じている。「音」「リズム」が気に入らないと、私は、そのことばが嫌いなのだ。読むことができないのだ。「音」「リズム」さえ気に入れば、何が書いてあってもいい。
 「意味」はでっちあげてしまう。「これは、こういう意味。だから好き」と書いてしまう。「誤読」を繰り広げるだけである。
 --と書くと、永島の詩を評価するということと、逆のことをしていると受け取られてしまうかなあ……。
 でも、続けよう。
 「道化師の伝言」。

冬の公園の片隅で、見物人のいないパントマイムを長い
間やっておりました。

 この書き出しには何の特徴もない。何も感じずに読んでしまう。

          語り継いできた時代の風景を呼び
もどす物語も、やっと幕を引くことになりそうです。

 まだ、私は何も感じない。

                        古
い町並みをイメージする装置もなく、シーソーが置かれ
ている砂場で、シナリオもろとも忘れられてゆくでしょ
う。

 ここで、少しつまずく。読点「、」によって三つのことが分けて語られているが、間に挟まった「シーソーが置かれている砂場で、」がなんとなく変なのである。公園だからシーソーくらいあってもいいのだが、突然、ここに具体的な「もの」が入り込んできた感じがする。「文体」が乱れた、あるいは攪拌された感じがする。

  汗を流してきた行為や、パフォーマンスを問う笑い
や淋しさはともすれば冷やかに見られ、公園のそばの小
川や草もあとかたもなく流されて、すこしずつ失われて
ゆく摂理の哀惜に涙するのはわたしの自由です。

 うーん、変。この文章、「意味」がわからない。「主語」と「述語」はどうなっている? 何が「主語」「述語」は何?
 比較的「意味が」とりやすいのは(というのも変な言い方だが)、「公園のそばの小川や草もあとかたもなく流されて、」である。公園のそばには小川があって、草があって、それが跡形もなく流される--忘れ去られる、ということなのだろう。これは、その前の文の「シーソーが置かれている砂場で、」と同じようなものである。ふいに挿入された「現実」のように、わかりやすい。(わかったような気分になれることばである。)
 でもねえ。私には、それが邪魔。
 そのわかりやすさ(?)とは別の部分、「パフォーマンスを問う笑いや淋しさはともすれば冷やかに見られ」ということばの何だかねじくれたことばの動きがおもしろい。「パフォーマンスを問う笑いや淋しさ」というのは何のことかわからないが、「笑いや淋しさ」が「冷やかに見られ」というのは、とても気になる。あ、「わたし(と、とりあえず書いておく)」は、道化師の笑いや淋しさが「冷やかに見られ」ていることを感じているのだなあ、と思う。そして、その「冷やかに見れている」という自覚しているから、「わたしのパントマイムも小川や草のように忘れ去られていくんだろう」と想像もするのだろう。そして、そのことに対して涙も流すのだが、その涙を「わたしの自由」と道化師は言ってしまう。「涙するのはわたしの自由です」と。
 あ、あ、あ。
 でも、こんなふうに書いてしまうと、私の書きたいことが零れてしまう。
 私が書いたような「意味」ではなく、私が、いいなあ、これをまねしたいなあと思うのは、いま書いてこなかった部分なのだ。

すこしずつ失われていく摂理の哀惜

 説明(?)しようとすれば、いろいろ説明できないこともないけれど、「意味」ではないのだ。ただ、その「音」のつながり、つながってしまうときの「呼吸」の奥にあるもの。「意味」の径路というか「間」をぐいと押し退けてつながってしまう「息の力」。ようするに、「リズム」がおもしろいのだ。
 「頭」ではわからない、というか、わかろうとすると面倒くさいことをいろいろ書かないといけないのだが、「声」に出してしまう、「音」にしてしまうと、その「音」が輝く。「ことば」が「意味」を拒絶して輝く。その感じがおもしろいのだ。

すこしずつ失われていく摂理の哀惜に涙するのはわたしの自由です。

 「涙」というセンチメンタルなことばも、その前の「摂理」とか「哀惜」とか、ちょっとややこしいことばとぶつかることでセンチメンタルな「意味」が消え、「音」になる。「意味」をなくした「もの」になる。その「もの」の感じが「自由」ということばと出会って輝く。
 うまくいえないのだが、「自由」とは「意味」とは関係ないことなんだ、とわかる。「意味」を「音」が蹴散らしてしまう--そのとき、何かが輝く。それが「自由」だと私の「肉体」は感じる。
 こんなことは、どれだけ書いても、永島の詩について語ったことにならないかもしれない。永島の詩を「理解」する手助けにはならないかもしれない。
 でも、仕方がない。私が感じているのは、そういうことなのだ。「意味」ではなく、「意味」を蹴散らしてことばが動く。そして、その動きは永島の場合、「息が長い」。何か、余分なもの(?)を巻き込んで、ぐねぐねとねじれながら動いていく。なぜ、そう動いていくのかわからないけれど、そんなふうに「意味」のわからない径路をことばは動くことができ、そして動いてしまうと、その動きが何だかかっこよく見える。
 それがおもしろい。

                      眼のな
かにまだ残されているわたしの闇のなか、果物を盛る白
い皿が、遠くから射す星の輝やきに照らされて、わたし
は身の周りを糊のきいた黒服に整え、シェフが使うナイ
フを振り廻しながら慣れた媚をまだ売っているのです。
それでも複数の人称を演じるわたしは、時には別れや接
近をくりかえし、背中を相互に密着させたままどちらで
もない世界を作ろうと、疑問を抱きながら季節の春はも
う来ないのだと言い聞かせ、寒さに凍てつく広場で立っ
たまま、望郷の唄に酔っていったのです。天幕を支えて
きた星の梁に何度も飛びつき、パントマイムの無駄のな
かで、小川の流れが小さな石で止められてしまうような
錯覚も、筋書きのない飢えのなかで既に始まっていたこ
とでした。

 どのことばが余分、どのことばが脇道にずれている--と言えるわけではないのだが、変でしょ? ことばが、つながらないでしょ? 主語、述語がはっきりしないでしょ? たとえば「背中を相互に密着させたままどちらでもない世界を作ろうと、疑問を抱きながら季節の春はもう来ないのだと言い聞かせ、」という部分の「疑問」って何? 「背中を密着させたまま」の「どちらでもない世界」? 「疑問を抱きながら」、(私自身に)「季節の春はもう来ないのだと言い聞かせ」るというのは、わかったようでわからないし、「季節の春」って何? なぜ、わざわざ「季節の」ということばがある?
 おかしいんだよなあ。わからないんだよなあ。
 けれど、そのわからないもの、わからないことばを、ともかくくっつけてしまう力。くっつけたまま、ことばを動かす力--その力と「呼吸」(息継ぎ)が関係している。「息」の強さが余分なものを吐き出してしまう。余分な「音」、余分な「声」を出してしまう。

 「頭」で整えたことばではなく、「頭」では整えられない何か、ことばにならないことばが「肉体」のなかにあり、それが「息」といっしょに出てくる。分離できないものとしていっしょにでてきてしまう。その「声」は、まあ、濁っているといえばいいのか、透明ではない。不透明である。
 --不透明であることを、「わからない」と言うよね。何かを見通せない。なぜ、そんなことばが生まれてくるのか、その「奥」が見通せない(不透明である)。
 不透明であるのは、永島も同じかもしれない。永島が永島自身の「声」がどこからきて、どこへ動いていくか、その「出発点」と「到達点」をきちんと知っているかどうか(頭で理科いてしているかどうか)--そんなことは、関係ないのだ。ことばがどこへ行くかはことばが決めることである。わかなくても、「声」を出してしまう。「声」のなかには、ことばにならない「音」がある。「リズム」がある。それをただ信じて、ことばを動かす。
 いや、永島は「わたしは知っている」と言うかもしれないけれど、それは、いい。どうぞ、「知っている」と言ってください。永島が「知っている」としても、私には、それがわからない。そして、わからないけれど、その「声」をまねしてみたい。そんなふうに「声」を出してみたい、という欲望に誘われる。
 それは、たとえて言えば、美空ひばりの「声」をまねすることで、美空ひばりの「声」のなかにある「感情」を自分のものにするというのと似ているかもしれない。
 私は「意味」ではなく、「声」が、そして「音」が好きなのだ。「声」や「音」のなかにこそ、「意味」をこえる「思想」があると思うのだ。「肉体」があると思うのだ。
 と、きょうも、何だかむちゃくちゃなことを書いてしまったなあ。





永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社

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