粕谷栄市「来訪」(「現代詩手帖」2013年02月号)
粕谷栄市「来訪」は「好日」という小詩集(4篇)のうちの1篇。いつものように、少し変(かなり変?)なことが、繰り返し繰り返し書かれている。繰り返すたびに少しずつことばが動いていき、全体がわかったかなと思ったらもとにもどってしまう。あれは夢だった、そんな夢を見た--という具合にことばが閉じられる。
何が起きたのかな? 何が起きているのかな? よくわからないといえば、よくわからない。
よくわからないのは、「猪」がほんものかどうか。現実的に考えれば猪が人間を訪ねてくるということはないから、まあ「比喩」なんだろうね。だから人間のかっこうをしている。「九月のはじめだというのに、冬帽をかぶって、古ぼけた冬の外套をきている。」と変ではあるが、人間のかっこうをしている。
と、書いて気がつくことは、あ、「人間のかっこう」をしているから「猪」を人間だと思ってしまうのだな、ということである。「かっこう」は服装だけではない。「何やら、やたらに、恐縮している。」そういう人間っているねえ。何か用事があってきたらしいのだが、用事に入る前に「恐縮」だけをつたえるという人が。
私はどうも「猪」の「肉体」を見ないで、そこに人間の「肉体」を見ている。そしてそれが「人間」の「肉体」に見えるから、そこに書かれていることを納得(?)する。そこに書かれていることが「比喩」あるいは「寓話」だと思って、安心(?)して読み進める。
でも、「比喩」や「寓話」なら、なぜ、安心なのだろう。--これは、答えがむずかしい。思いつかない。読んでいるときは「比喩」とか「寓話」というようなことも考えず、ただ「肉体」で反応しているのだと思う。「肉体」が覚えていることを思い出し、そういうことばが動くときがあったな、と思い出すのだ。
粕谷の詩がおもしろいのは、そういうことを「わかっていること(わかったこと)」として明瞭に書くのではなくて、粕谷自身でも何やら「わかったようなわからないような」という感じを表出しながら書くことである。
「ひどい訛りがあるうえに、早口で、何をいっているのか、聞き取れない。」これは、わからない部分の表出。「何度か問い直して、辛うじてわかったことは、彼は、仕事が駄目になって、金に困っている、ということだった。」は、わかるの表出。
その「わからない」と「わかる」のあいだには「何度か問い直して」という表現がつたえるように、「繰り返し」がある。そしてその「繰り返し」とは「動詞」である。「何度か聞き直す」--「聞き直す」という「動詞」を繰り返しているうちに「わかる」。それは、この詩の場合では、猪のことばがわかる、言っている意味がわかるということだけれど……。「猪」って「日本語」? 日本語を話している? あ、それはどうでもいいのだ。繰り返すことで、ことばではなく「肉体」がわかってしまうのだ。「肉体がわかる」というのは「肉体のなかで動いていることばにならない何か」が「肉体」に「ことば」を抜きにして伝わってくるということである。
恐縮してなかなか話さない。そうかと思えば前屈みになって(つまり、顔を見つめてではなく)、早口で何か言う--あ、金を貸してくれといっているのだな、というのはほんとうかどうかわからないけれど、そう感じ取ることができる。「感じ取る」のは「肉体」である。
私たちは(私は)、「猪」の「ことば」を直接粕谷から知らされていない。知らされているのは猪の「肉体」の動きだけである。「恐縮している」「前屈みの姿勢」「すぐ用件を話しはじめた」「早口」--そういう「肉体」の動きを粕谷が粕谷の「肉体」で反芻する。そしてそこに起きている「こと」を納得する。「猪のことば」ではなく「猪の肉体」に向き合い、「粕谷の肉体」を「猪の肉体」に重ねる。「肉体」のなかで粕谷と猪が「一体(ひとつ)」になる。それが猪を「わかる/こと」。
この「わかる」は、肉体「を」わかる、ではなく、肉体「が」わかる、である。その、粕谷の「わかった肉体」と私(谷内)の肉体が重なり、一体(ひとつ)になったときと、私はそれを「わかった」と書く。「頭」でわかっているのではなく、ことばにならない「肉体」でわかっているので、その「わかった」をことばに転換し、書くのはなかなかむずかしい。書いても書いても、それが正しいかどうか見当がつかない。
「猪」のことは、この詩を読んでも、少しも「わからない」。なんと言ったのか、それは「わからない」。「頭」で「わかる」部分をもっていない。けれど、私の「肉体」は「猪」をわかってしまう。ことばではなく肉体が「覚えていること」をとおしてわかってしまう。
そういう「肉体」が「覚えていること」を、粕谷は「肉体」をとおして書いている。
「そんなことから」--これは「私(粕谷)」が病気だった。「鬱屈した」とか「むずかしい病名」とかという表現からは何やら精神的な病気を想像しがちだが(また「猪」を幻想と考えれば、さらに精神的な病気を連想しがちだが……) 、それを「肉体」は「覚えている」。
「覚えている/こと」が、「そんなこと」の「こと」のなかにある。
「そんなこと」としかあいまいに書けないのは、それが「頭=精神」の領域で処理できるものではなく、もっと「どこ」と言えないような「肉体」そのものの記憶だからである。
「肉体」が触れあう。「肉体」がいっしょに動く。その「動き」のなかにある「ことば」にはならない何か--「そんなこと」を繰り返し書くことで「こと」を濃密にして行く。粕谷が書いているのは「こと」なのだ。
紙幣を数えるときの目の「真剣」。「真剣」という「こと」が逆に「紙幣を数える」を呼び出しているようでもある。「紙幣」を「汚れた紙幣」にしているようでもある。そしてそこから「哀れ」という「こと」が起きる。哀れに「思える」と粕谷は書いているが、この「思う」は「頭(あるいは精神、こころ)」ではなく「肉体」が直接感じるものである。
粕谷が実際に真剣に紙幣を数えた「こと」があったかどうかわからない。けれど、どこかでそういう「こと」を目撃した、あるいは聞いた。そのときの「こと」を「肉体」が「覚えている」。
「そんなことから」、粕谷はことばを動かしている。
「寓話」に見えるが、それは「頭」がつくりあげた「物語」ではなく、「肉体」が自分の肉体のなかから掘り起こしてきたものなのである。
粕谷栄市「来訪」は「好日」という小詩集(4篇)のうちの1篇。いつものように、少し変(かなり変?)なことが、繰り返し繰り返し書かれている。繰り返すたびに少しずつことばが動いていき、全体がわかったかなと思ったらもとにもどってしまう。あれは夢だった、そんな夢を見た--という具合にことばが閉じられる。
何が起きたのかな? 何が起きているのかな? よくわからないといえば、よくわからない。
深夜、唐突に、一匹の痩せた猪が、私を訪ねてきた。
まだ暑さののこる、九月のはじめだというのに、冬帽を
かぶって、古ぼけた冬の外套をきている。
私に猪の知り合いはいない。玄関で、そのまま、帰っ
て貰うつもりだったが、何やら、やたらに、恐縮してい
る。
部屋に入って貰って、向き合って坐ると、猪は、人間
ならば、小男で、文字通りに猪首だ。少し前屈みの姿勢
で、すぐ用件を話しはじめた。
ところが、ひどい訛りがあるうえに、早口で、何をい
っているのか、聞き取れない。何度か問い直して、辛う
じてわかったことは、彼は、仕事が駄目になって、金に
困っている、ということだった。
よくわからないのは、「猪」がほんものかどうか。現実的に考えれば猪が人間を訪ねてくるということはないから、まあ「比喩」なんだろうね。だから人間のかっこうをしている。「九月のはじめだというのに、冬帽をかぶって、古ぼけた冬の外套をきている。」と変ではあるが、人間のかっこうをしている。
と、書いて気がつくことは、あ、「人間のかっこう」をしているから「猪」を人間だと思ってしまうのだな、ということである。「かっこう」は服装だけではない。「何やら、やたらに、恐縮している。」そういう人間っているねえ。何か用事があってきたらしいのだが、用事に入る前に「恐縮」だけをつたえるという人が。
私はどうも「猪」の「肉体」を見ないで、そこに人間の「肉体」を見ている。そしてそれが「人間」の「肉体」に見えるから、そこに書かれていることを納得(?)する。そこに書かれていることが「比喩」あるいは「寓話」だと思って、安心(?)して読み進める。
でも、「比喩」や「寓話」なら、なぜ、安心なのだろう。--これは、答えがむずかしい。思いつかない。読んでいるときは「比喩」とか「寓話」というようなことも考えず、ただ「肉体」で反応しているのだと思う。「肉体」が覚えていることを思い出し、そういうことばが動くときがあったな、と思い出すのだ。
粕谷の詩がおもしろいのは、そういうことを「わかっていること(わかったこと)」として明瞭に書くのではなくて、粕谷自身でも何やら「わかったようなわからないような」という感じを表出しながら書くことである。
「ひどい訛りがあるうえに、早口で、何をいっているのか、聞き取れない。」これは、わからない部分の表出。「何度か問い直して、辛うじてわかったことは、彼は、仕事が駄目になって、金に困っている、ということだった。」は、わかるの表出。
その「わからない」と「わかる」のあいだには「何度か問い直して」という表現がつたえるように、「繰り返し」がある。そしてその「繰り返し」とは「動詞」である。「何度か聞き直す」--「聞き直す」という「動詞」を繰り返しているうちに「わかる」。それは、この詩の場合では、猪のことばがわかる、言っている意味がわかるということだけれど……。「猪」って「日本語」? 日本語を話している? あ、それはどうでもいいのだ。繰り返すことで、ことばではなく「肉体」がわかってしまうのだ。「肉体がわかる」というのは「肉体のなかで動いていることばにならない何か」が「肉体」に「ことば」を抜きにして伝わってくるということである。
恐縮してなかなか話さない。そうかと思えば前屈みになって(つまり、顔を見つめてではなく)、早口で何か言う--あ、金を貸してくれといっているのだな、というのはほんとうかどうかわからないけれど、そう感じ取ることができる。「感じ取る」のは「肉体」である。
私たちは(私は)、「猪」の「ことば」を直接粕谷から知らされていない。知らされているのは猪の「肉体」の動きだけである。「恐縮している」「前屈みの姿勢」「すぐ用件を話しはじめた」「早口」--そういう「肉体」の動きを粕谷が粕谷の「肉体」で反芻する。そしてそこに起きている「こと」を納得する。「猪のことば」ではなく「猪の肉体」に向き合い、「粕谷の肉体」を「猪の肉体」に重ねる。「肉体」のなかで粕谷と猪が「一体(ひとつ)」になる。それが猪を「わかる/こと」。
この「わかる」は、肉体「を」わかる、ではなく、肉体「が」わかる、である。その、粕谷の「わかった肉体」と私(谷内)の肉体が重なり、一体(ひとつ)になったときと、私はそれを「わかった」と書く。「頭」でわかっているのではなく、ことばにならない「肉体」でわかっているので、その「わかった」をことばに転換し、書くのはなかなかむずかしい。書いても書いても、それが正しいかどうか見当がつかない。
「猪」のことは、この詩を読んでも、少しも「わからない」。なんと言ったのか、それは「わからない」。「頭」で「わかる」部分をもっていない。けれど、私の「肉体」は「猪」をわかってしまう。ことばではなく肉体が「覚えていること」をとおしてわかってしまう。
そういう「肉体」が「覚えていること」を、粕谷は「肉体」をとおして書いている。
さまざまな事情で、私も仕事がうまくゆかず、鬱屈し
て、家に閉じこもっていたのだ。医師は、私に、何やら
むずかしい病名の診断をくだしていた。
たぶん、そんなことから、あの気の毒な猪が、あやし
い血の時間に、私を頼ってくることがあったのだろう。
「そんなことから」--これは「私(粕谷)」が病気だった。「鬱屈した」とか「むずかしい病名」とかという表現からは何やら精神的な病気を想像しがちだが(また「猪」を幻想と考えれば、さらに精神的な病気を連想しがちだが……) 、それを「肉体」は「覚えている」。
「覚えている/こと」が、「そんなこと」の「こと」のなかにある。
「そんなこと」としかあいまいに書けないのは、それが「頭=精神」の領域で処理できるものではなく、もっと「どこ」と言えないような「肉体」そのものの記憶だからである。
「肉体」が触れあう。「肉体」がいっしょに動く。その「動き」のなかにある「ことば」にはならない何か--「そんなこと」を繰り返し書くことで「こと」を濃密にして行く。粕谷が書いているのは「こと」なのだ。
その後、何度も眠れない夜明け、私は、あの猪の夢を
見た。彼は、廃れた工場の空き地で、汚れた紙幣を数え
ていた。そのときも、彼の細い目は、哀れに思えるほど
真剣だったのだ。
紙幣を数えるときの目の「真剣」。「真剣」という「こと」が逆に「紙幣を数える」を呼び出しているようでもある。「紙幣」を「汚れた紙幣」にしているようでもある。そしてそこから「哀れ」という「こと」が起きる。哀れに「思える」と粕谷は書いているが、この「思う」は「頭(あるいは精神、こころ)」ではなく「肉体」が直接感じるものである。
粕谷が実際に真剣に紙幣を数えた「こと」があったかどうかわからない。けれど、どこかでそういう「こと」を目撃した、あるいは聞いた。そのときの「こと」を「肉体」が「覚えている」。
「そんなことから」、粕谷はことばを動かしている。
「寓話」に見えるが、それは「頭」がつくりあげた「物語」ではなく、「肉体」が自分の肉体のなかから掘り起こしてきたものなのである。
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