詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(80)

2018-09-26 14:15:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
80 ヒポクラテスより

「メリポイエの青年 過度の飲酒と房事ののち
発熱が続いて病臥 悪寒と嘔気を訴えた
錯乱気味だが行儀よく 沈黙を守っていた」
もし医聖が 症例の一つとして記録しなければ
二千数百年後に 知られることもなかった人物像
「二十四日目死亡」と終わることで 些かな永遠化

 カヴァフィスの詩(墓碑銘シリーズ)を思わせる作品。括弧内は引用、ヒポクラテスのことば。高橋は、それを説明し、最後に「永遠化」と書き加えているだけなのだが、私はこの詩に強く惹かれた。
 引用されているヒポクラテスのことばが簡潔である。ヒポクラテスが書いた通りなのか、高橋が簡潔に書き直したのか。どちらかわからないが、余分なものがなく、「神話」の文体である。
 高橋がここで「永遠化」と呼んでいるのは「具体」のことである。「具体」は「一つ」ということばで言いなおされている。「永遠」は「一つ」ということ。「普遍」というよりも「個別(具体)」であることが「永遠」の核心なのだ。
 「二十四日目」の「具体的」な数が、それを象徴する。「日にち(時間)」に明確な区切りを刻みつけている。連続する「抽象的なもの」を切断し、「個別(具体)」にすることで「肉体」そのものに引きつける。
 そして、それが「記録」される。「永遠化」の「化」とは「記録する」ということによって成り立つ。「ことば」は何かを記録し、記録することで「永遠」を生み出す。そこにある「ことば」を読み取り、理解する。そのとき「永遠化」の「化」ととりはらわれ、「永遠」そのものになる。
 その繰り返される運動が、ここに書かれている。

 ただ、カヴァフィスなら、「永遠化」とは書かなかっただろう。念押し(?)などせずに、ヒポクラテスをただ引用する。つまり反復することで、そのことばを「永遠」にしただろう。カヴァフィスのしたことを読者が繰り返すとき、そこに「永遠」があらわれる。それを「永遠」と判断する人もいれば、気づかずに通りすぎる人もいる。そのことばの前で立ち止まるのは、いま生きている人ではなく「二千数百年後」の人であってもかまわない。そう判断し、ことばを切って捨てただろう。
 私は中井久夫のカヴァフィスしか知らないのだが。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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