いい映画というのは、書いても書いても書き切れない。私は目の調子が悪いので1回に書ける量(文字数、というか時間)が限られているので、書きたいこともついつい省略してしまう。
前の「日記」では書き漏らした美しいシーン。どうしても書いておきたい美しいシーンがある。
「インビクタス/負けざる者たち」ではマット・デイモンがマンデラ大統領が投獄されていた独房を訪問するシーン。ラグビーの仲間、そしてガールフレンドたちと島を訪問する。ラグビー仲間たちは、最初は早朝練習か、いやだなあ、くらいの気持ちでいるが、船着き場でガールフレンドと合流するとクルージング気分で晴れやかになる。しかし、ついた先がマンデラの独房のある島とわかると、ふーん、という感じに変わる。ソンナナカデ、マット・デイモンだけが、マンデラの姿を思い浮かべる。独房の広さを両手を広げ、独房からみえる石切り場(?)をながめる。無意味な労働をしているマンデラをみる。
このときの、マット・デイモンと他の若者の対比がすばらしい。無関心と関心がすばやくすれ違う。
マット・デイモン以外の若者は、こんなものを見て何がおもしろいのか、というような顔で通りすぎる。お寺なんか知ったもんか、というような中学生が法隆寺を修学旅行で見て回る感じ。連れられてきたから、ただ見て回っているだけ。これ、いったい、どんな価値があるの? そんな感じで歩いている。
マット・デイモンは誰にも彼の感動(というか、こころが感じた震えのようなもの)を語らない。誰にも感動を強要しない。よく見ろよ、とも言わない。そんなことを言っている余裕がないほど感動したのか。いや、自分の感動を語っても、それはまだ彼らには届かない、わからなければわからないでいい、ただ、わからなくても、ここを訪問する(訪問した)ということを、きっといつか思い出す。そう知っているからだ。
イーストウッドの映画は、どの映画でも非常に抑制がきいているが、それは、たぶん、いま描いていることの「感動」を強要しないという姿勢にある。わからなくていい。いつか、ふっと思い出せればそれでいい。それにだれかが気がつくまで、ただ映画を撮るだけ--というような感じがする。仲間をマンデラの独房へ案内したマット・デイモンのような姿勢だ。
「抱擁のかけら」では、ルイス・オマールとペネロペ・クルスが逃避行した海岸がすばらしい。崖の上からみつめた黒い砂浜と白い波の対比。そして、その秘密の隠れ家のようながけ下で抱擁するふたりを崖の上から撮ったシーン。
他のシーンでは(都会、マドリードでは)、赤が随所に出てくる。 ペネロペ・クルスはもちろんだが、ルイス・オマールも赤いシャツを着る。赤は、彼らの(スペイン人の)肉体を流れる血の色。その濃密な色。--それとは対照的な、黒い砂浜と白い波。いったん黒と白にかえり、もういちど赤へよみがえるための場所なのかもしれない。
ルイス・オマールとペネロペ・クルスのセックスシーンも非常に美しい。はじめてセックスをするロミオとジュリエットのように、若さに満ちあふれている。肌を突き破っていのちがこぼれてくる。これは、ペネロペ・クルスとパトロンとのセックスシーンと比較するとより鮮明になる。ペネロペ・クルスとパトロンのセックスは一夜で6回という激しいものだが(パトロンの主張)、ふたりは肌をさらさない。シーツにくるまったまま、いわば目隠ししてセックスしている。セックスは他人にみせるためのものではないから、他人から見えない(観客に見えない)ということは重要ではない--というのは、嘘。他人にみせないものだからこそ、あからさまにさらけだし、むさぼりあう。他人がいくら見てても、けっして見えないのがセックスのときの二人の充実なのだ。だから、それは明るいひかりのなかで、何も隠さずにやってこそ意味がある。
ルイス・オマールとペネロペ・クルスのセックスシーンの美しさは、私の記憶でいうかぎりは、「帰郷」のジェーン・フォンダとジョン・ボイドのセックスシーン以来のものだ。「帰郷」ではジェーン・フォンダがとてつもなく美しいのだが、「抱擁のかけら」ではペネロペ・クルスだけではなく、ルイス・オマールも輝いている。まるで、まるで……演技ではなく、ほんとうにセックスしちゃったよ、どきどき、わくわく、と「青年」になってしまっている。おかしくて、楽しい。
キスシーンやセックスシーンが美しい映画は、私は大好きだ。
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