詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高塚謙太郎『量』

2019-10-09 11:19:45 | 詩集
高塚 謙太郎
七月堂


高塚謙太郎『量』(七月堂、2019年07月15日発行)

 高塚謙太郎『量』はA4版の 250ページ近くある詩集だ。読む前にひるんでしまう。詩の組み方もさまざまで、手に負えない。だから、テキトウなところをパッと開く。そのページを読み感想を書こうと思うが、なかなかうまくいかない。つまり、高塚のことばと私のことばは、一緒に動こうとはしない。一緒に動かなくてもいいのだけれど。だから、正確に言いなおすと、私のことばが勝手に面倒くさがるのである。このページのことばについては書きたくない。これは、まあ、他のページとどうつながっているか考えないといけないかもしれないと思うからなんだけれど。そういうことを繰り返していると、だんだん私の方がいいかげんになってくる。最初からいいかげんではあるのだが。「組み方が嫌いだなあ」とか、「この詩は上揃えと下揃えが対になっているから引用がめんどう」とか。こういういいかげんな思いも感想ではあるのだが、と開き直って。
 えいっ。
 それが、58ページ。

何回目かの第二外国語のガラスを貫いてバイパスの朝と
始発の合図を知らないバイパスの朝と
カタカナ英語のディープキスの燃え滓の下で

 の「ディープキス」に「註釈(?)」がついている。これがおもしろい。

紙片の置かれたテーブルにカップを並べ、隣に座って
いる。温かい飲み物は言葉を奪う。近道を教えたこと
はない。どちらかが椅子を動かして出ていった。カッ
プが1つになっている。カップには小さな影がついて
いる。影には形があり、人の顔に見える。カップの中
には温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。

 これは「註釈」のほんの一部。ナボコフの「青白い炎」でも思い出せばいいのかもしれない。というようなことは書いてもしようがないか。
 私は、「どちらかが椅子を動かして出ていった。カップが1つになっている。」で一瞬立ち止まった。「カップが1つになっている。」を一瞬、ふたつあったカップがひとつに融合したと読んだのだ。よく読めば(よく読まなくても)、二人のうちのひとりがカップを持って去ったのでカップがひとつになったという単純な描写なのかもしれないが、ちょっと「ことば」というか「認識」が行き来するのである。たぶん「ことば(一文)」の短さが錯覚を誘うのである。
 そのあとの「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」でも、印象が奇妙に動く。「カップには小さな影がついている。」は、カップはひとつになったが影と向き合い「ふたつ」であることを意識している。ここには「ひとつ」と「ふたつ」、「ふたつ」と「ひとつ」が交錯している。世界がばらばらになったり、くっついたり、そしてまた散らばっていく、「意識の流れ」みたいなものがある。
 「影には形があり、人の顔に見える。」というのは、まさにその「意識」そのものなのだが、ここで私の「ことば」は突然、「影なんかを人の顔として見るなよ」と叫ぶのである。その「ことば」の声を私は聞くのだ。この部分を、「わかる」けれど、「うるさい」と感じたのだ。
 そして、高塚の書きたいのは、「カップには小さな影がついている。影には形があり、人の顔に見える。」なのか、それともそのあとの「カップのなかには温かい飲み物が入っていて、言葉を奪う。」なのか、という謎の中に迷い込む。
 こんなことばを書くなよ、といいながら、次のことばで否定したはずのことばのなかへ帰っていく。高塚のことばが、前に書いたことば「温かい飲み物は言葉を奪う」に迷い込むように。(そういう「ことば」の運動が起きる。このときの、私自身の「わけのわからなさ」が、私は好きなのだ。
 ふーむ。
 「言葉を奪う」と書きながら、そのことを「ことば」にしている。「ことば」は「ことば」でなくなりながらも、そこに起きていることを「ことば」として存在させてしまう。「ことば」を奪われることで「ことば」が生まれる。もし「ことば」が奪われなかったら、次の「ことば」は生まれることはない。つまり、世界は違ったものになる。
 このあと、

                     顔が立
ち上がってテーブルに手をついた。最後のカップも運
ばれていった。紙片から一番近い場所に手をついた。
しばらく時間が経って新しいカップが並べて置かれ
た。光がなければ、カップがテーブルに置かれること
もなかっただろう。

 と、もってまわった「散文」(説明)がはじまる。「顔」「手」が「意識」の流れを切断して主役になって動く。「意識」の物体性(?)のようなものが消えてしまって、妙につらい。無理がある。という感想は、この部分だけを取り上げているから、そうなってしまうのかもしれないが。
 でも、「光がなければ、」というのは美しいなあとも思う。

 何を書いているか、わからない?
 そうだろうなあ。
 私も何を書きたいのか、よくわからない。
 こんなふうに、きょうはことばが動いた、という以外は何もいえない。

 もっと「体力」があるときでないと、読めない詩集だ。






*

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