愛知トリエンナーレ再開
自民党憲法改正草案を読む/番外293(情報の読み方)
愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」が再開された。2019年10月09日読売新聞朝刊(西部版・14版)の35面(社会面)では、よくわからないのだが、こういう文章が記事の最後にある。
これまで伝えられていることから推測すると、河村は、
①「少女像(慰安婦像)」は河村の歴史認識と一致しない、日本の歴史を歪曲しているから許すことができない
②天皇の肖像を焼くことは許されない
という観点から、「暴力だ」と訴えているのだろう。
だが①の慰安婦については、「歴史認識」が河村と同一でなければならない理由はどこにもない。「慰安婦」は日本軍によって強制されたものという認識は、多くの人がもっている。その根拠も示されている。これは「表現の自由」の問題ではなく、歴史認識の問題である。
②の天皇の肖像も、実際を見ていないのではっきりしないが、どうも本を焼却処分をしたらそこに天皇の肖像が見えた(天皇の肖像が燃えるのが見える)というものらしい。もちろん、それは「わざと」そういうように撮影したのだろうけれど。
問題は、人の肖像を焼くというのは失礼なことかもしれないが、怒りのために焼きたいという人もいるかもしれない。そういう感情はおさえられない。もし、そういう行為を禁止するなら、それは「表現の自由」ではなく、別の概念で規制するものだろう。
だいたい「表現の自由」は、そのことばを単独で取り上げても意味はない。「表現の自由は、これを保障する」というのは「国民の表現の自由については、これを保障する。つまり、国家権力は、表現がどういうものであれ、それに介入し、表現する行為をさまたげない(妨害してはいけない)という規定であって、国民が何を表現してはいけないかという規定ではない。憲法は、国家権力を拘束するが、国民は拘束されない。
憲法には、国民の義務として、教育、勤労、納税を上げているが、勤労していない人、働いていない人が憲法違反で罰せられることはない、ということだけを見てもわかる。
こどもに教育を受けさせなかったら、憲法違反ではなく、もっと具体的な法律が適用される。納税を怠ったときも憲法ではなく、法律が適用される。
同じように、表現に問題があったとしたら、それは「憲法の概念(表現の自由)」ではなく、別の法で取り締まるべきである。そういう手続きを踏まずに、展覧会を中止するという行為が権力の越権行為(憲法違反)なのである。
だいたい「慰安婦像」をつくること、展示すること、天皇の肖像を焼くことが、どの法律に違反するのか。
天皇の肖像が焼かれるのを見るのは不愉快だ、ということはわかる。しかし、河村が不愉快だからといって、全員が不愉快とはかぎらない。私はわざわざ天皇の写真を焼きたいとは思わないが、思うひとがいるのも充分に理解できる。たとえばヒトラーの写真を焼く、スターリンの写真を焼くというのは、どうか。それを想像するといい。「教科書の歴史」ではどう書かれているか知らないが、昭和天皇を太平洋戦争の責任者、戦犯と考えるひともいる。怒りや憎しみからある人の写真を焼いてはいけない、特に天皇の写真を焼いてはいけない、焼くところを見せてはいけないというのなら、それを禁止するなら、禁止するための法律がないといけない。その法律を元に河村は主張しないといけない。河村の感情が法律であってはならない。
河村にとって天皇は絶対的な存在なのかもしれないが、その絶対視を国民に押しつけるととんでもないことがおきる。天皇の写真が写っている新聞は犬のトイレにつかってはいけないとか、犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかってはいけないとか。さらには、こういうふうな文章に天皇を持ち出してはいけないとか。
天皇ということばをつかうときは、天皇の尊厳に配慮すべきだというのなら、そう言うための根拠になる「法律」が必要である。昔は「不敬罪」というのがあったらしいが。と、考えると、河村のやったことは、単なる「抗議」をとおりこして、「2012年の自民党改憲草案」の先取り実施であることがわかる。そこでは「天皇」は明治憲法と同じように「元首」と定義されている。
あ、少し脱線したか。いや、脱線ではないだろうなあ。
どんなときでも、個人の感情が「法律」であってはいけない。特に権力者の感情が法律として他人の行動を規制するものになってはいけない。
これは河村に直接関係することではないが。
多くの「嫌韓派」のひとが、河村と同じ意見を主張している。朝鮮半島を日本軍が侵略し、植民地化したことを無視している。「慰安婦像」は日本人を傷つける、不愉快だ、と主張している。撤去しろと訴える。その一方、韓国人が「旭日旗」は不愉快だ、オリンピック会場へ持ち込む(応援につかう)のはやめてほしいと訴えると、何をつかって応援するかは自由だ、と言う。韓国人がどれだけ不愉快に思い、不安に駆られるかは気にしない。
これは、おかしい。
「嫌韓派」のひとにとって不愉快なことは許さない。しかし韓国人にとって不愉快なことを「嫌韓派」のひとがするのはかまわない。自由だ。
こういう態度が、「日本は太平洋戦争を反省していない。韓国に対して充分な謝罪をしていない」という批判につながるのだ。二度と外国に侵略しないという反省と誓いの気持ちがあれば「軍旗を応援につかわない」というのは当然のことだろう。
何回か書いたが、「謝罪」というのは「申し訳ない、ごめんなさい」というだけではないのだ。すぎたことは、どんなにしても取り戻せない。だからこそ、「もう二度としません」と言うこと、将来同じことをしないと誓うことが大事であり、それが「謝罪」なのだ。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
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自民党憲法改正草案を読む/番外293(情報の読み方)
愛知トリエンナーレの「表現の不自由展」が再開された。2019年10月09日読売新聞朝刊(西部版・14版)の35面(社会面)では、よくわからないのだが、こういう文章が記事の最後にある。
再開に反対する実行委会長代行の河村たかし名古屋市長は8日午後、会場と県庁で抗議活動を行った。支援者らとともにプラカードを掲げ、「表現の自由という名の暴力だ」などと訴えながら、一時その場で座り込み、展示の中止を改めて訴えた。
これまで伝えられていることから推測すると、河村は、
①「少女像(慰安婦像)」は河村の歴史認識と一致しない、日本の歴史を歪曲しているから許すことができない
②天皇の肖像を焼くことは許されない
という観点から、「暴力だ」と訴えているのだろう。
だが①の慰安婦については、「歴史認識」が河村と同一でなければならない理由はどこにもない。「慰安婦」は日本軍によって強制されたものという認識は、多くの人がもっている。その根拠も示されている。これは「表現の自由」の問題ではなく、歴史認識の問題である。
②の天皇の肖像も、実際を見ていないのではっきりしないが、どうも本を焼却処分をしたらそこに天皇の肖像が見えた(天皇の肖像が燃えるのが見える)というものらしい。もちろん、それは「わざと」そういうように撮影したのだろうけれど。
問題は、人の肖像を焼くというのは失礼なことかもしれないが、怒りのために焼きたいという人もいるかもしれない。そういう感情はおさえられない。もし、そういう行為を禁止するなら、それは「表現の自由」ではなく、別の概念で規制するものだろう。
だいたい「表現の自由」は、そのことばを単独で取り上げても意味はない。「表現の自由は、これを保障する」というのは「国民の表現の自由については、これを保障する。つまり、国家権力は、表現がどういうものであれ、それに介入し、表現する行為をさまたげない(妨害してはいけない)という規定であって、国民が何を表現してはいけないかという規定ではない。憲法は、国家権力を拘束するが、国民は拘束されない。
憲法には、国民の義務として、教育、勤労、納税を上げているが、勤労していない人、働いていない人が憲法違反で罰せられることはない、ということだけを見てもわかる。
こどもに教育を受けさせなかったら、憲法違反ではなく、もっと具体的な法律が適用される。納税を怠ったときも憲法ではなく、法律が適用される。
同じように、表現に問題があったとしたら、それは「憲法の概念(表現の自由)」ではなく、別の法で取り締まるべきである。そういう手続きを踏まずに、展覧会を中止するという行為が権力の越権行為(憲法違反)なのである。
だいたい「慰安婦像」をつくること、展示すること、天皇の肖像を焼くことが、どの法律に違反するのか。
天皇の肖像が焼かれるのを見るのは不愉快だ、ということはわかる。しかし、河村が不愉快だからといって、全員が不愉快とはかぎらない。私はわざわざ天皇の写真を焼きたいとは思わないが、思うひとがいるのも充分に理解できる。たとえばヒトラーの写真を焼く、スターリンの写真を焼くというのは、どうか。それを想像するといい。「教科書の歴史」ではどう書かれているか知らないが、昭和天皇を太平洋戦争の責任者、戦犯と考えるひともいる。怒りや憎しみからある人の写真を焼いてはいけない、特に天皇の写真を焼いてはいけない、焼くところを見せてはいけないというのなら、それを禁止するなら、禁止するための法律がないといけない。その法律を元に河村は主張しないといけない。河村の感情が法律であってはならない。
河村にとって天皇は絶対的な存在なのかもしれないが、その絶対視を国民に押しつけるととんでもないことがおきる。天皇の写真が写っている新聞は犬のトイレにつかってはいけないとか、犬のうんちを拾うとき天皇の肖像が載っている新聞をつかってはいけないとか。さらには、こういうふうな文章に天皇を持ち出してはいけないとか。
天皇ということばをつかうときは、天皇の尊厳に配慮すべきだというのなら、そう言うための根拠になる「法律」が必要である。昔は「不敬罪」というのがあったらしいが。と、考えると、河村のやったことは、単なる「抗議」をとおりこして、「2012年の自民党改憲草案」の先取り実施であることがわかる。そこでは「天皇」は明治憲法と同じように「元首」と定義されている。
あ、少し脱線したか。いや、脱線ではないだろうなあ。
どんなときでも、個人の感情が「法律」であってはいけない。特に権力者の感情が法律として他人の行動を規制するものになってはいけない。
これは河村に直接関係することではないが。
多くの「嫌韓派」のひとが、河村と同じ意見を主張している。朝鮮半島を日本軍が侵略し、植民地化したことを無視している。「慰安婦像」は日本人を傷つける、不愉快だ、と主張している。撤去しろと訴える。その一方、韓国人が「旭日旗」は不愉快だ、オリンピック会場へ持ち込む(応援につかう)のはやめてほしいと訴えると、何をつかって応援するかは自由だ、と言う。韓国人がどれだけ不愉快に思い、不安に駆られるかは気にしない。
これは、おかしい。
「嫌韓派」のひとにとって不愉快なことは許さない。しかし韓国人にとって不愉快なことを「嫌韓派」のひとがするのはかまわない。自由だ。
こういう態度が、「日本は太平洋戦争を反省していない。韓国に対して充分な謝罪をしていない」という批判につながるのだ。二度と外国に侵略しないという反省と誓いの気持ちがあれば「軍旗を応援につかわない」というのは当然のことだろう。
何回か書いたが、「謝罪」というのは「申し訳ない、ごめんなさい」というだけではないのだ。すぎたことは、どんなにしても取り戻せない。だからこそ、「もう二度としません」と言うこと、将来同じことをしないと誓うことが大事であり、それが「謝罪」なのだ。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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