レイス・チェリッキ監督「沈黙の夜」(★★★★)
監督 レイス・チェリッキ
黒と赤と白。この三色がとても効果的、象徴的につかわれている映画である。黒は男の黒い服。赤は花嫁のベールとリボン。それは初夜の純潔を証明する血の色である。血は男のなかにも流れているし、男が過ごしてきた過去の流血という形で存在するのだが、男は赤を隠している。白は花嫁のドレス、シーツ。これは純潔を浮かび上がらせるひとつの装置。白は男も白いシャツを着ている。男にも純粋なものはある、ということか。そして、その白はもうひとつ雪の色でもある。この雪は何をあらわしているか--無垢か。そうかもしれないが……。
最後のシーンの「白」がとてもおもしろい。
ラストシーンに銃声が一発響く。それを聞いて村から女が二人、男と女の初夜の部屋を尋ねてくる。シーツをもらいに来る。最後は二人の女がドアを叩く音で終わり、実際にはシーツは掲げられない(このことは、初夜がなかったことを象徴する)のだが、そのときの二人が歩いてくる道に積もった雪が絶妙の色をしている。
雪のシーンは何度か出てくる。花嫁が家を出るのを見たあと、若い男が村を飛び出す。そのとき彼の向かう先に白い雪山。それは若い男の「純粋さ」の象徴のようなものである。男が見る夢のなかでも雪が出てくる。赤いリボンにまといつかれるようにして走る男。そのときの場所が雪の野原。--その雪の色に比べるとラストの色は灰色に近い。これはうっすらと地面に積もっていて、地面が透けて見えるということなのだが、それ以外に所長的な意味をになっている。純粋、無垢は美しいものと考えられるが、はたしてそうなのか。そんなふうに単純化できるのか。純粋、無垢と思われているもののなかに、汚れがひそんでいないか。
ラストシーンに絡めていうと、二人の女は、男と花嫁の初夜を確認にきたのだが、初夜を確認するという風習のなかに「純粋、無垢」(祝福)と言い切ってしまうもの以外のものが含まれていないか。たとえば、この映画の男と女は対立する部族(?)の若いの象徴である。結婚によって対立が集結する。それは、ありていに言えば対立を終わらせるための「手段」なのである。「策略」なのである。このために、雪は汚れている。その汚れに二人の女は気づいてはいない。
それに気づくことができるのは、映画を見ている観客だけである。だから、ここにこそ監督の強いメッセージがこめられている。
男は血の抗争の代弁者として二度服役した。いま、策略結婚で、結婚を望んでいない少女と結婚してしまった。この連鎖から男はなんとか自分自身を解放したいと思っている。そのために口髭を剃るということも実行する。少女に言われて、口髭を剃るのだが、少女に言われてする--という行動のなかに、因習の打破、自分の生きてきた世界からの脱出の願いがこめられている。
でも、そういうことは「部屋の外」(男の行動を実際に目撃できなかったひと)にはわからない。何が起きているかわからないまま、習慣(因習)にしたがって、二人の女は初夜のシーツを受け取りに来る。その道が、灰色の雪で濁っている。寒々しく広がっている。
この白の変化こそ、この映画の「結論」というか、メッセージである。
「部屋」のなかでは男が因習の連鎖を断ち切った。そのあと、それを「外」へ広げていくのは、死んでしまった男ではできないことである。別の部屋の中では、もしかしたらいままで通りの因習がつづいているかもしれない。策略結婚の、幼い花嫁を男が力付くで犯し、結婚を成立させるという関係がつづいているかもしれない。この因習「外」からどうやって改善できるか。
映画のなかにあるひとつの不思議なシーン。「白」について書いたとき少し触れたのだが、少女が花嫁になって家を出るのを見た若い男が村を去っていく。その前に純白の雪山が広がる。それはほんとうに真っ白だ。そのときの若い男はだれなのか。少女の恋人ととらえればまてひとつストーリーが広がるが、この男はきっと監督自身なのだ。監督は、そういう風習に縛られる「村」から脱出した。そして、そういう「因習(村の掟)」を映画という形で告発する。それが監督の「白」の示し方なのだ。「白」は「無罪証明」である。ラストシーンの灰色っぽい白と比較すると、そのことがはっきりする。
で、そうわかった上で書くのだが。
この「無罪証明」は余分だなあ。「無罪証明」をしようとするから、映画が、あまりにも完璧に「ストーリー」になってしまう。わからない部分をなくしてしまう。役者の存在感を「ストーリー」が上回ってしまう。
そこが残念。
もっとも……。
この作品は福岡アジア映画祭の上映作品のうちの1本。上映のあと、監督との質疑応答があったが、そのときの質問の口火が「ラストシーンで、二人の女が鍵をがちゃがちゃさせる音がするけれど、あれは男と女を部屋にとじこめておくためか」というものだった。えっ、どこからそんな疑問が出てくる? さらには、「初夜の始まりに銃声二発。終わったときも銃声二発で知らせるはずなのに、ラストで一発しか鳴らなかった。なぜか?」という質問がつづく。
あ、そういうことは、観客が自分で考えるようにするために監督が仕組んだもの。どう理解するか、それを質問している部分。まるで学校のテストで、「先生、この問題の答えは何ですか?」と聴くようなもの。
質問したひとはほんとうに映画を見ていたのかなあ。映画のなかでの男の変化を見ていたのかなあ。
男は少女の要求に応じて、次々に自分をかえている。おとぎ話をする。綾取りをする。髭を剃る。--この髭を剃るというのは、中東の男たちの顔を見たことあるなら、大変なことだとわかる。男はたいてい髭をはやしている。サダムも、ビンラーディンも。男が男であることの象徴のようなものだ。男は髭を剃ることで、自分はここまで少女のためにかわろうと努力している、部族間の抗争を終わらせるために努力している、と告げているのである。
でも、どんなに男が少女のために変わったとしても、初夜のシーツを証拠として受け取りに来るという「因習」までは変えられない。結局、少女を「策略結婚」という因習のなかにとじこめてしまう。男はすでに、二度ひとを殺している。映画の冒頭でふたつの墓をまいっている。ここで少女と初夜を迎えてしまえば、3人目の人間を殺すことになる。少女は生きたまま死んだ状態になる。
それを避けるために、男は自殺する。
男の自殺によって社会が変わるわけではないことは、ラストの灰色の雪が象徴しているが、それは男にはわからないこと。男は最後に、ひとを生かすために自分を殺す。三度目の正直ということばがトルコにあるかどうかわからないが、三度目でやっと目覚める。
それにしても。
こうやって映画の感想をブログに書いている人間がいうことではないかもしれないが、他人の感想なんておもしろくないねえ。いったい、このひと、ほんとうに映画を見たの?といいたくなるときがある。
映画の解説なんて聴くもんじゃないね。去年(おととし?)KBCで「ニーチェの馬」を見たとき、どこかの大学教授(?)の「解説」があったけれど、ああ、ひどかったなあ。あの「解説」のために、私はあの映画を不当に評価してしまう。同じことを繰り返すしかない人間の不条理な哀しみ(途中で他者に出会うが結局いつもの二人にかえって繰り返すだけの生活)を剛直な映像で表現した映画だったのだけれど、「解説」に腹を立てて、私は「金返せ」の評価しかしなかった。
「沈黙の夜」も、観客のとんでもない質問のために、思わず「金返せ」といいたくなったけれど、あ、これは知人から券をもらって見たんだった。気を取り直そう……と思い、気が変わらないうちに急いで感想を書いた。
(2013年09月15日、キャナルシティ13)
監督 レイス・チェリッキ
黒と赤と白。この三色がとても効果的、象徴的につかわれている映画である。黒は男の黒い服。赤は花嫁のベールとリボン。それは初夜の純潔を証明する血の色である。血は男のなかにも流れているし、男が過ごしてきた過去の流血という形で存在するのだが、男は赤を隠している。白は花嫁のドレス、シーツ。これは純潔を浮かび上がらせるひとつの装置。白は男も白いシャツを着ている。男にも純粋なものはある、ということか。そして、その白はもうひとつ雪の色でもある。この雪は何をあらわしているか--無垢か。そうかもしれないが……。
最後のシーンの「白」がとてもおもしろい。
ラストシーンに銃声が一発響く。それを聞いて村から女が二人、男と女の初夜の部屋を尋ねてくる。シーツをもらいに来る。最後は二人の女がドアを叩く音で終わり、実際にはシーツは掲げられない(このことは、初夜がなかったことを象徴する)のだが、そのときの二人が歩いてくる道に積もった雪が絶妙の色をしている。
雪のシーンは何度か出てくる。花嫁が家を出るのを見たあと、若い男が村を飛び出す。そのとき彼の向かう先に白い雪山。それは若い男の「純粋さ」の象徴のようなものである。男が見る夢のなかでも雪が出てくる。赤いリボンにまといつかれるようにして走る男。そのときの場所が雪の野原。--その雪の色に比べるとラストの色は灰色に近い。これはうっすらと地面に積もっていて、地面が透けて見えるということなのだが、それ以外に所長的な意味をになっている。純粋、無垢は美しいものと考えられるが、はたしてそうなのか。そんなふうに単純化できるのか。純粋、無垢と思われているもののなかに、汚れがひそんでいないか。
ラストシーンに絡めていうと、二人の女は、男と花嫁の初夜を確認にきたのだが、初夜を確認するという風習のなかに「純粋、無垢」(祝福)と言い切ってしまうもの以外のものが含まれていないか。たとえば、この映画の男と女は対立する部族(?)の若いの象徴である。結婚によって対立が集結する。それは、ありていに言えば対立を終わらせるための「手段」なのである。「策略」なのである。このために、雪は汚れている。その汚れに二人の女は気づいてはいない。
それに気づくことができるのは、映画を見ている観客だけである。だから、ここにこそ監督の強いメッセージがこめられている。
男は血の抗争の代弁者として二度服役した。いま、策略結婚で、結婚を望んでいない少女と結婚してしまった。この連鎖から男はなんとか自分自身を解放したいと思っている。そのために口髭を剃るということも実行する。少女に言われて、口髭を剃るのだが、少女に言われてする--という行動のなかに、因習の打破、自分の生きてきた世界からの脱出の願いがこめられている。
でも、そういうことは「部屋の外」(男の行動を実際に目撃できなかったひと)にはわからない。何が起きているかわからないまま、習慣(因習)にしたがって、二人の女は初夜のシーツを受け取りに来る。その道が、灰色の雪で濁っている。寒々しく広がっている。
この白の変化こそ、この映画の「結論」というか、メッセージである。
「部屋」のなかでは男が因習の連鎖を断ち切った。そのあと、それを「外」へ広げていくのは、死んでしまった男ではできないことである。別の部屋の中では、もしかしたらいままで通りの因習がつづいているかもしれない。策略結婚の、幼い花嫁を男が力付くで犯し、結婚を成立させるという関係がつづいているかもしれない。この因習「外」からどうやって改善できるか。
映画のなかにあるひとつの不思議なシーン。「白」について書いたとき少し触れたのだが、少女が花嫁になって家を出るのを見た若い男が村を去っていく。その前に純白の雪山が広がる。それはほんとうに真っ白だ。そのときの若い男はだれなのか。少女の恋人ととらえればまてひとつストーリーが広がるが、この男はきっと監督自身なのだ。監督は、そういう風習に縛られる「村」から脱出した。そして、そういう「因習(村の掟)」を映画という形で告発する。それが監督の「白」の示し方なのだ。「白」は「無罪証明」である。ラストシーンの灰色っぽい白と比較すると、そのことがはっきりする。
で、そうわかった上で書くのだが。
この「無罪証明」は余分だなあ。「無罪証明」をしようとするから、映画が、あまりにも完璧に「ストーリー」になってしまう。わからない部分をなくしてしまう。役者の存在感を「ストーリー」が上回ってしまう。
そこが残念。
もっとも……。
この作品は福岡アジア映画祭の上映作品のうちの1本。上映のあと、監督との質疑応答があったが、そのときの質問の口火が「ラストシーンで、二人の女が鍵をがちゃがちゃさせる音がするけれど、あれは男と女を部屋にとじこめておくためか」というものだった。えっ、どこからそんな疑問が出てくる? さらには、「初夜の始まりに銃声二発。終わったときも銃声二発で知らせるはずなのに、ラストで一発しか鳴らなかった。なぜか?」という質問がつづく。
あ、そういうことは、観客が自分で考えるようにするために監督が仕組んだもの。どう理解するか、それを質問している部分。まるで学校のテストで、「先生、この問題の答えは何ですか?」と聴くようなもの。
質問したひとはほんとうに映画を見ていたのかなあ。映画のなかでの男の変化を見ていたのかなあ。
男は少女の要求に応じて、次々に自分をかえている。おとぎ話をする。綾取りをする。髭を剃る。--この髭を剃るというのは、中東の男たちの顔を見たことあるなら、大変なことだとわかる。男はたいてい髭をはやしている。サダムも、ビンラーディンも。男が男であることの象徴のようなものだ。男は髭を剃ることで、自分はここまで少女のためにかわろうと努力している、部族間の抗争を終わらせるために努力している、と告げているのである。
でも、どんなに男が少女のために変わったとしても、初夜のシーツを証拠として受け取りに来るという「因習」までは変えられない。結局、少女を「策略結婚」という因習のなかにとじこめてしまう。男はすでに、二度ひとを殺している。映画の冒頭でふたつの墓をまいっている。ここで少女と初夜を迎えてしまえば、3人目の人間を殺すことになる。少女は生きたまま死んだ状態になる。
それを避けるために、男は自殺する。
男の自殺によって社会が変わるわけではないことは、ラストの灰色の雪が象徴しているが、それは男にはわからないこと。男は最後に、ひとを生かすために自分を殺す。三度目の正直ということばがトルコにあるかどうかわからないが、三度目でやっと目覚める。
それにしても。
こうやって映画の感想をブログに書いている人間がいうことではないかもしれないが、他人の感想なんておもしろくないねえ。いったい、このひと、ほんとうに映画を見たの?といいたくなるときがある。
映画の解説なんて聴くもんじゃないね。去年(おととし?)KBCで「ニーチェの馬」を見たとき、どこかの大学教授(?)の「解説」があったけれど、ああ、ひどかったなあ。あの「解説」のために、私はあの映画を不当に評価してしまう。同じことを繰り返すしかない人間の不条理な哀しみ(途中で他者に出会うが結局いつもの二人にかえって繰り返すだけの生活)を剛直な映像で表現した映画だったのだけれど、「解説」に腹を立てて、私は「金返せ」の評価しかしなかった。
「沈黙の夜」も、観客のとんでもない質問のために、思わず「金返せ」といいたくなったけれど、あ、これは知人から券をもらって見たんだった。気を取り直そう……と思い、気が変わらないうちに急いで感想を書いた。
(2013年09月15日、キャナルシティ13)