境節『十三さいの夏』(思潮社、2009年07月31日発行)
冒頭の「呼びかけられて」は不思議な詩である。「いま」「ここ」にいて、人生を振り返っている。
何かに誘われたような気持ちになる。「ここまで おいで」と呼びかけられたような感じ。好奇心。それにしたがって生きる生き方があるが、境はそういう生き方をしなかった、と書いている。そういう生き方をしなかったけれど、そういう呼びかけは聞こえていた。そして、その呼びかけにしたがうかわりに、自分の中の「そこへ行ってはいけない」という声に身をまかせたのだ。「そこへ行ってはいけない」という声は、「いま」も聞こえている。そして、その声が聞こえるということは、「いま」も「ここまで おいで」という声が聞こえるということでもある。
呼びかける声、ここには明確な形では書かれていないが、それにしたがうことを押しとどめる声。そのふたつの間で境は生きている。
いつも、何かの間にいるだ。何かの「真ん中」にいるのだ。けれど、それは「中心」という意味ではない。「そこまで」という作品には、「宇宙の真(ま)ん中(なか)に存在している」という行が出てくるが、「中心」という意味ではない。
「真ん中」は「中心」ではなく、「つなぐ」ということ、「仲立ち」ということなのだ。「仲立ち」は、また、両方からの誘いが出会う場でもある。何かをつなぎながら、境は、その両方から誘いを受け、その両方をじっとみつめる。「いま」「ここ」を離れない。離れないまま、「真ん中」から両側へ境自身を広げていくような感じだ。
自分の幅を広げる。人間の幅を広げる。--そういうことばを、ふと、感じる詩である。境の書いていることばには、境が広げてきた「人間の幅」がある。
「ここまで おいで」という呼びかけを聞きながら、じっとこらえている。じっとこらえながら、「ここまで おいで」とは反対側へも自分を広げ、その逆方向に広げた幅によって、なんといえばいいのだろう、その誘いの側まで到達するような感じだ。「ここまで おいで」という呼びかけにしたがって、そこへは行かない。行かないことが、そこまで行くことなのだ。--矛盾しているが、そういうことだ。行かないことが、そこへ行くということのすべてを境の「肉体」のなかに蓄えられるのである。
そして、その蓄えられたものが、どんどん増えて、ついにあふれだす瞬間というものもある。
「もう一度」という作品。
「ここまで おいで」という呼びかけに応じなかったものが互いに出会う。呼びかけに応じずに、静かに自己を守り通してきたものどうしが互いに出会う。
そのとき「真ん中」と「真ん中」が重なりあう。
何かと何かの間--としての「真ん中」は、突然、「広がり」ではなく(ひろがり、ということばを境はつかっていないのだけれど……)、「ふかさ」を発見する。「ふかいおもい」を発見する。そして、それは重なり合って、重なり合うことで、深さが高みにかわり、あふれだすのだ。「広がり」のなかへ。つまり、「真ん中」の「まわり」に。(「まわり」というのは「広がり」のことである、と私は思う。)
美しく重なりながら、「もう一度 会えますか」と問う。
この「もう一度 会えますか」と問いかけている相手を、恋人ととらえることもできるけれど、私は、詩だと信じている。何かに出会い、ことばが動く。詩になる。その、境が書いた詩--あるいは、書かされた詩(詩の神様によって書かされた詩)に対して、「もう一度 会えますか」と呼びかける。それは、「もう一度 詩が書けますか」というのに似ている。
詩を書ける。ことばを書ける--そのことに対する感謝のこころが静かに響いてくる詩集だ。
冒頭の「呼びかけられて」は不思議な詩である。「いま」「ここ」にいて、人生を振り返っている。
こわれそうで
こわれなかったものを かかえて
今朝(けさ) 立っている
小さな 生物(いきもの)の気持ちで
量(はか)りきれなかった日々
生きるのが こわかった
ここまで おいで
ここまで おいで
試(ため)されたくは なかったのだろうか
呼びかけられても
足がすくんで行けないまま
すでに年月(としつき)はすぎて
それでも ひそかなおもいは
河床の水のように
流れ続ける
何かに誘われたような気持ちになる。「ここまで おいで」と呼びかけられたような感じ。好奇心。それにしたがって生きる生き方があるが、境はそういう生き方をしなかった、と書いている。そういう生き方をしなかったけれど、そういう呼びかけは聞こえていた。そして、その呼びかけにしたがうかわりに、自分の中の「そこへ行ってはいけない」という声に身をまかせたのだ。「そこへ行ってはいけない」という声は、「いま」も聞こえている。そして、その声が聞こえるということは、「いま」も「ここまで おいで」という声が聞こえるということでもある。
呼びかける声、ここには明確な形では書かれていないが、それにしたがうことを押しとどめる声。そのふたつの間で境は生きている。
いつも、何かの間にいるだ。何かの「真ん中」にいるのだ。けれど、それは「中心」という意味ではない。「そこまで」という作品には、「宇宙の真(ま)ん中(なか)に存在している」という行が出てくるが、「中心」という意味ではない。
手と目のよろこびにみちて
この地に立つ
宇宙の真ん中に存在している
気に満(み)ちて
そこまで到達せよ
そそのかされているのだろうか
死んだ友が
はるかなところから呼んでいる
「真ん中」は「中心」ではなく、「つなぐ」ということ、「仲立ち」ということなのだ。「仲立ち」は、また、両方からの誘いが出会う場でもある。何かをつなぎながら、境は、その両方から誘いを受け、その両方をじっとみつめる。「いま」「ここ」を離れない。離れないまま、「真ん中」から両側へ境自身を広げていくような感じだ。
自分の幅を広げる。人間の幅を広げる。--そういうことばを、ふと、感じる詩である。境の書いていることばには、境が広げてきた「人間の幅」がある。
「ここまで おいで」という呼びかけを聞きながら、じっとこらえている。じっとこらえながら、「ここまで おいで」とは反対側へも自分を広げ、その逆方向に広げた幅によって、なんといえばいいのだろう、その誘いの側まで到達するような感じだ。「ここまで おいで」という呼びかけにしたがって、そこへは行かない。行かないことが、そこまで行くことなのだ。--矛盾しているが、そういうことだ。行かないことが、そこへ行くということのすべてを境の「肉体」のなかに蓄えられるのである。
そして、その蓄えられたものが、どんどん増えて、ついにあふれだす瞬間というものもある。
「もう一度」という作品。
遠い日々を通って
わたしたちは
出会った
ふるえをおさえて
そのひとを見る
かべの中に住んでいたような
気持ちが急にほころんで
ことばは
ふかいおもいを飛びこえていく
考えていなかった
リズムがわいてくる
おさえきれない音が
にわかに立ちあがって
意味はすでに消え去るのか
せんさいなソロディが まわりを包んで
やさしさを どうしよう
もう一度 会えますか
「ここまで おいで」という呼びかけに応じなかったものが互いに出会う。呼びかけに応じずに、静かに自己を守り通してきたものどうしが互いに出会う。
そのとき「真ん中」と「真ん中」が重なりあう。
何かと何かの間--としての「真ん中」は、突然、「広がり」ではなく(ひろがり、ということばを境はつかっていないのだけれど……)、「ふかさ」を発見する。「ふかいおもい」を発見する。そして、それは重なり合って、重なり合うことで、深さが高みにかわり、あふれだすのだ。「広がり」のなかへ。つまり、「真ん中」の「まわり」に。(「まわり」というのは「広がり」のことである、と私は思う。)
美しく重なりながら、「もう一度 会えますか」と問う。
この「もう一度 会えますか」と問いかけている相手を、恋人ととらえることもできるけれど、私は、詩だと信じている。何かに出会い、ことばが動く。詩になる。その、境が書いた詩--あるいは、書かされた詩(詩の神様によって書かされた詩)に対して、「もう一度 会えますか」と呼びかける。それは、「もう一度 詩が書けますか」というのに似ている。
詩を書ける。ことばを書ける--そのことに対する感謝のこころが静かに響いてくる詩集だ。
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