詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)

2020-11-11 15:57:51 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)(2020年11月11日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 知らない人ばかり

 日本公開は1959年。製作は1953年。私は、今回、はじめて見た。
 注目したのはカーニバルのシーンと、グイドという少年。グイドって、「8 1/2 」の主役(マルチェロ・マストロヤンニ)の名前じゃないか。五人の若者のひとりとこころを通わせ、彼がひとり町を出て行くとき駅で見送る。この町を出ていった青年がフェリーニであり、また見送ったのもフェリーニということになるだろう。町を捨てながら、その町にとどまり見送る少年。ここに奇妙なセンチメンタリズムがある。センチメンタルとは、現実と認識のずれを意識しながら、そのずれを見つめることからはじまる。そのとき、視点はいつでも何も知らない「無垢」(純粋)から見つめられる。この映画でも、若者が描かれるのだけれど、そしてそこには「おとな」の視点があるのだけれど、それを結晶させるのは少年の視点。「無垢」が青春の「汚れ(不純物)」を洗い清める。「不良」から「不」をとりはらう。強調しないけれど、そういうニュアンスをしっかり刻印している。「無垢」が「不良青春」を通過して、「おとなのなかのこども」として生きる。「8 1/2 」のグイドだね。その出発点が、この町。フェリーニのこころはいつもこの町にある、ということか。次に見る「アマルコルド」の舞台なのか、とあす見る映画を思い出しながら(?)見ていた。
 もうひとつ注目したカーニバル。いつものことながら「楽しい」だけではない。美空ひばりの「お祭りマンボ」ではないが、「祭りがすんだそのあとは……」というさみしさがある。さみしいけれど(さみしくなるのはわかっているけれど)、カーニバルの「発散」がなければ日々の暮らしを生きていくことはできない。このカーニバルではピエロの張りぼてが非常に印象に残る。ピエロは笑いを引き起こすが、カーニバルが終わればその顔は不気味である。また、悲しい。その張りぼてを捨てていけない。捨ててしまうことができない。捨ててしまっては、悲しみが生きていけない。ピエロをかかえ、引きずりながら、泥酔して家へ帰る若者、泥酔した若者によりそい自宅へ送り届ける若者。だれかの悲しみ(不幸)をだれかが支えている。この、無意識の「連帯」が青春というものかもしれない。支えているとか、支えあっているという意識はないんだけれどね。
 それにしても。
 不景気な時代は、青年の「自立」がどうしても遅くなる。「青春群像」とはいうものの、みんな二十代の後半、三十過ぎに見えたりする。そしてそれが、なんといえばいいのか、いまの日本の若者の姿と重なって見える。イタリアは「家族愛」が強いのかもしれないけれど、みんな「家」を出て行かない。出て行けない。親の収入に(あるいは別の家族の収入に)頼っている。貧乏なはずなのに、親がいちばんの金持ちなのだ。私は若い人とのつきあいがないのでわからないのだが、そうか、いまの若者はこの「青春群像」に出てくる若者のような「精神」を生きているのか、と思ったりした。自分の「青春」を一度も思い出さなかった。不思議なことに。

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