T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』(2)(エイコ・デューク訳)(思潮社、2011年11月10日発行)
T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』の感想を一度書いたことがある。今回は2回目。
今が冬のせいだろうか。「真冬」という詩が気に入っている。
この詩を私は気に入っている--と書いたのだが、実は最後の2行は私にはわからない。そして、私が気に入っている部分は、ちょっと困ったことに、完全な「誤読」ゆえの「気に入っている」なのである。
詩には、ときどき、こういう困ったことが起きる。
私が気に入っているのは--つまり、何度読み返してもあきないのは、
この2行なのである。
この部分を私は「誤読」している--とはっきりわかるのは、「眼を閉じる。」の句点「。」のためである。「私は眼を閉じる。」という1行は完結している。そこでひとつの「文」になっている。それを刻印するのが句点「。」である。
ところが、この2行を読むとき、私は(私のことばは)、そこから句点「。」を省略してしまうのである。
--というのは、正確ではないのかもしれないけれど。
眼を閉じる--そうすると、そこに「音のない世界が存在する」。この、眼を閉じると、音のない世界の関係を、私は断絶(句点「。」)ではなく、「つながり」として感じてしまうのである。眼を閉じると、音のない世界が生まれる、と感じてしまうのである。「因果関係」のようなものとして感じてしまうのである。
変でしょ?
変--であることは、私は十分承知している。
眼を閉じると、色のない世界(形のない世界、光のない世界)が存在する、というのなら、視覚的に当然なことだねえ。
でも、そうだとまったくおもしろくなくて、「眼を閉じると、音のない世界が存在する」だと、あ、なるほど、そうだったのか、と思うのである。
そのとき、「音のない世界」は、永続的ではなく、一瞬である。眼を閉じる。頭の中に暗闇がうまれる。その瞬間、ほんとうに一瞬だけ「音のない世界」が浮かび上がる。
それは、幻、かもしれない。
でも、それに惹かれるのだ。
何かが交錯し、その瞬間、何かが結晶する。そこには、ことばでは論理的に説明できない何かがある。
これは、もしかすると、「俳句」の世界かもしれない。
--と、強引に書いてしまうのは、トランスロンメルが「俳句」のような詩を書いていることを利用しての「論理づけ」であって、まあ、私独特の、いいかげんな論理の飛躍、論理の逸脱なのだが。
とはいうものの、この詩集のなかで、私が「俳句」を感じたのは、ここなのだ。
もっと正確にいうと、
この3行。ここにある不思議な「もの」の出会い、「光(きらきら)」と「音(響き)」が強引(?)に結びつけられた1行。それが「眼を閉じる」ことで解体する。「光(きらきら)」が消える。そうすると「音(響き)」も消え、「音のない世界」が生まれる。不思議な「融合」がここにはある。
そして、その融合は、「もの」には「光(色、と呼んでもいいと思う)」と「音(響き)」が必ず結びついているということを証明している。
たとえば「氷」。それは、それ自体「音」を持たないように考えられている。耳をすましても、氷から何かが聞こえるわけではない。でも、その氷が輝いているのを見たとき、視覚は「きらきら」ということばを呼び出すのだが、それだけでは終わらない。「きらきら」は肉体のなかをとおって「タンバリン」の「響き」をいっしょに引っぱり出す。
いや、そんなことをトランスロンメルは書いているのではないかもしれない。氷の丸い形からタンバリンを思い出し、すぐに割れてしまう薄い氷のからタンバリンの音を思い出しただけなのかもしれない。しかし、そこに「きらきら」という視覚を刺激することばが絡んでくる。--何か、はっきりとは区別できないものが混じり合う。
私たちは(私だけ?)、純粋に視覚とか聴覚とかだけを取り出すことができないのかもしれない。視覚を説明しようとすると聴覚がまじり、聴覚を説明しようとすると視覚がまじる。
この詩でトランスロンメルはタンバリンの音を「きらきらしい」と呼んでいるが、「きらきら」した音ということばから私か連想するのはたとえばトランペットの音である。あるいはパパロッティの声である。チェロの音やサッチモの声ではない。(チェロにもサッチモにも「きらきら」はあるけれど。)--で、思うのは、「音」なのに「きらきら」。どうして「きらきら」で「音」がわかるのか。肉体のなかで「感覚」が混じり合う、出会うからだね。
この違った感覚が出会って、融合し、別々なものがひとつに結晶する。これが私には「俳句」にとても近いと思う。
まあ、こういう違ったもの(存在、世界)がひとつに結晶し、そのなかをくぐることで世界が一新する(そのままの世界でありながら、別次元にワープする)というのは、俳句の特権ではなく、あらゆる芸術の特権なのだろうけれど、特に俳句に著しいものだと思う。
私の書いている感想は、トスランスロンメルの意図しないことがら--句点で区切っているのに、それを無視して読む、強引に句点を消し去って世界を重ね合わせてよむことからはじまるのだけれど、この境目を消し去り、肉体の奥の感覚をつなげるときに広がる世界が--広がる世界が、私は好きなのだ。
だれの作品に対しても、私はそんなふうにして読んでしまう。
ことばを追っているうちに、私の肉体のなかで何かが動く。それはほとんど無意識なのだけれど、その無意識を追いかけていくと、そのとき作者の肉体と重なるときがある。重なったと感じるときがある。
そして、その重なったときの感覚のなかに、トランスロンメルの場合「俳句」が入り込んでくる--というのが私の印象である。
事情があって中断したので、何か書いている感想がちぐはぐになってしまった。
「俳句詩」という3行で構成された作品も詩集のなかにはある。そのなかでは、冒頭の、
がとても印象に残る。最初に読んだせいかもしれない。高圧線-絃-音楽への以降が、やはり視覚-聴覚への融合につながるからかもしれない。
私は音痴のくせに、音が聞こえる瞬間が好きなのである。
T・トランスロンメル『悲しみのゴンドラ 増補版』の感想を一度書いたことがある。今回は2回目。
今が冬のせいだろうか。「真冬」という詩が気に入っている。
青い一条の光が
わたしの服から 流れ出す。
真冬。
氷のタンバリンのきらきらしい響き。
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し
亀裂がひとつ
死者たちはそこから
ひそかに境を越えて送られる。
この詩を私は気に入っている--と書いたのだが、実は最後の2行は私にはわからない。そして、私が気に入っている部分は、ちょっと困ったことに、完全な「誤読」ゆえの「気に入っている」なのである。
詩には、ときどき、こういう困ったことが起きる。
私が気に入っているのは--つまり、何度読み返してもあきないのは、
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し
この2行なのである。
この部分を私は「誤読」している--とはっきりわかるのは、「眼を閉じる。」の句点「。」のためである。「私は眼を閉じる。」という1行は完結している。そこでひとつの「文」になっている。それを刻印するのが句点「。」である。
ところが、この2行を読むとき、私は(私のことばは)、そこから句点「。」を省略してしまうのである。
--というのは、正確ではないのかもしれないけれど。
眼を閉じる--そうすると、そこに「音のない世界が存在する」。この、眼を閉じると、音のない世界の関係を、私は断絶(句点「。」)ではなく、「つながり」として感じてしまうのである。眼を閉じると、音のない世界が生まれる、と感じてしまうのである。「因果関係」のようなものとして感じてしまうのである。
変でしょ?
変--であることは、私は十分承知している。
眼を閉じると、色のない世界(形のない世界、光のない世界)が存在する、というのなら、視覚的に当然なことだねえ。
でも、そうだとまったくおもしろくなくて、「眼を閉じると、音のない世界が存在する」だと、あ、なるほど、そうだったのか、と思うのである。
そのとき、「音のない世界」は、永続的ではなく、一瞬である。眼を閉じる。頭の中に暗闇がうまれる。その瞬間、ほんとうに一瞬だけ「音のない世界」が浮かび上がる。
それは、幻、かもしれない。
でも、それに惹かれるのだ。
何かが交錯し、その瞬間、何かが結晶する。そこには、ことばでは論理的に説明できない何かがある。
これは、もしかすると、「俳句」の世界かもしれない。
--と、強引に書いてしまうのは、トランスロンメルが「俳句」のような詩を書いていることを利用しての「論理づけ」であって、まあ、私独特の、いいかげんな論理の飛躍、論理の逸脱なのだが。
とはいうものの、この詩集のなかで、私が「俳句」を感じたのは、ここなのだ。
もっと正確にいうと、
氷のタンバリンのきらきらしい響き。
わたしは眼を閉じる。
音のない世界が存在し
この3行。ここにある不思議な「もの」の出会い、「光(きらきら)」と「音(響き)」が強引(?)に結びつけられた1行。それが「眼を閉じる」ことで解体する。「光(きらきら)」が消える。そうすると「音(響き)」も消え、「音のない世界」が生まれる。不思議な「融合」がここにはある。
そして、その融合は、「もの」には「光(色、と呼んでもいいと思う)」と「音(響き)」が必ず結びついているということを証明している。
たとえば「氷」。それは、それ自体「音」を持たないように考えられている。耳をすましても、氷から何かが聞こえるわけではない。でも、その氷が輝いているのを見たとき、視覚は「きらきら」ということばを呼び出すのだが、それだけでは終わらない。「きらきら」は肉体のなかをとおって「タンバリン」の「響き」をいっしょに引っぱり出す。
いや、そんなことをトランスロンメルは書いているのではないかもしれない。氷の丸い形からタンバリンを思い出し、すぐに割れてしまう薄い氷のからタンバリンの音を思い出しただけなのかもしれない。しかし、そこに「きらきら」という視覚を刺激することばが絡んでくる。--何か、はっきりとは区別できないものが混じり合う。
私たちは(私だけ?)、純粋に視覚とか聴覚とかだけを取り出すことができないのかもしれない。視覚を説明しようとすると聴覚がまじり、聴覚を説明しようとすると視覚がまじる。
この詩でトランスロンメルはタンバリンの音を「きらきらしい」と呼んでいるが、「きらきら」した音ということばから私か連想するのはたとえばトランペットの音である。あるいはパパロッティの声である。チェロの音やサッチモの声ではない。(チェロにもサッチモにも「きらきら」はあるけれど。)--で、思うのは、「音」なのに「きらきら」。どうして「きらきら」で「音」がわかるのか。肉体のなかで「感覚」が混じり合う、出会うからだね。
この違った感覚が出会って、融合し、別々なものがひとつに結晶する。これが私には「俳句」にとても近いと思う。
まあ、こういう違ったもの(存在、世界)がひとつに結晶し、そのなかをくぐることで世界が一新する(そのままの世界でありながら、別次元にワープする)というのは、俳句の特権ではなく、あらゆる芸術の特権なのだろうけれど、特に俳句に著しいものだと思う。
私の書いている感想は、トスランスロンメルの意図しないことがら--句点で区切っているのに、それを無視して読む、強引に句点を消し去って世界を重ね合わせてよむことからはじまるのだけれど、この境目を消し去り、肉体の奥の感覚をつなげるときに広がる世界が--広がる世界が、私は好きなのだ。
だれの作品に対しても、私はそんなふうにして読んでしまう。
ことばを追っているうちに、私の肉体のなかで何かが動く。それはほとんど無意識なのだけれど、その無意識を追いかけていくと、そのとき作者の肉体と重なるときがある。重なったと感じるときがある。
そして、その重なったときの感覚のなかに、トランスロンメルの場合「俳句」が入り込んでくる--というのが私の印象である。
事情があって中断したので、何か書いている感想がちぐはぐになってしまった。
「俳句詩」という3行で構成された作品も詩集のなかにはある。そのなかでは、冒頭の、
高圧線の幾すじ
凍れる国に絃を張る
音楽圏の北の涯て
がとても印象に残る。最初に読んだせいかもしれない。高圧線-絃-音楽への以降が、やはり視覚-聴覚への融合につながるからかもしれない。
私は音痴のくせに、音が聞こえる瞬間が好きなのである。
![]() | 悲しみのゴンドラ |
トーマス トランストロンメル | |
思潮社 |