詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の世界(4)

2019-05-15 14:53:01 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(4)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年05月06日)
                         2019年05月15日(水曜日)

 「チチのこいびと」をもう一度読んでみます。前に一度読んで、みんなで感想を語り合ったけれど、今度は、ちょっと読み方を変えます。私がこの詩を読むとき、どのことばに注目したか、ということを中心に、「こんな風に読んでみたら、どうだろうか」という感じで進めていきたいと思います。
 前回は、「わたし」は誰、何歳、というようなことを想像しながら読んだけれど、今度はそういうことを考えずに、ただ、ことばとことばの関係から何が書いてあるのかを読んでみたいと思います。

チチのこいびと

うちのチチにはこいびとがいます
わたしにはわかります
ハハにはないしょです

わるいことはしていますが
チチはあくにんではない
こいびとのひともきっと
わるいとおもいながら
チチをすきになってしまったのです

わたしはハハとふたりで
せんたくものをほしています
チチのこいびとはひとりで
なにをしているのかな
おひさまはあたたかいけど
わたしのこころはすこし
ひんやりしています

 一連目の「わたしにはわかります」。この「わかります」について、前回は「なぜ、わかるんだろう」というようなことを話し合いました。「わかります」を、別なことば、似たことばで言いなおすと、どう言い換えられますか?

「父に恋人がいることは間違っていない、と思います」「感じます」「知っています」「推測できます」「気づきました」

 「わかります」と「気づきました」「感じました」の違いは何だろう。

 「わかります、の方が確信的、主体的な感じ」
「気づいたよりも、わかりますの方が主観的なのだけれど絶対感がある」
「気づいただと、あるひとつの現象を見て気づいた。わかりますだと、いろんなことを考え合わせてわかる、という感じ」
「わかりますの方が、強い印象がある。絶対的な感じがする」
 
 ちょっと視点を変えてみましょう。
こういうとき「わかります」とは言っても、「気づきます」とは言わないと思う。「気づいています」は言うかもしれないですね。
 どうしてだろう。「わかります」と「気づいた」「気づいています」は何が違うんだろう。

 「日本語の問題として外国人に教えるなら、テンスかな。テンスが違う。気づいたは過去形。わかりますは現在形」

 では、なぜ、「わかりました」ではないのだろう。

 「わかりました、だとことばがきついですね」
 「時間が空いて、それが固定的になってしまって、きまった感じ。わかりますだと、まだ現在形できまった感じがしない。疑問が残る。推測している感じ」

 そうですね。「わかりました」と書くとニュアンスがぜんぜん違ってくると思う。ここが、この詩の最初のポイントだと私は考えています。
 それでは「知っています」と「わかります」は、どんなふうにつかいわけますか?

 「知っています、狭いけれど、わかりますは広い感じ」「知っています、だと確定的だけれど、わかりますは推測」「知っているは、ほかの人も知っているけれど、わかりますは自分が漠然と感じている」

 「わかりました」「気づいた」「知っています」だと「父に恋人がいる」ということが「事実」になる。けれど、「わかります」だと、それが「事実」かどうか、ほんとうは「わからない」ということになりませんか? 

「でも、わからないけれど、確信しているから、わかる、と言う。

 ここで谷川が書いている「わかります」は「客観的な事実として知っている」ということではなく、漠然とわかります、ということになりますね。ただし、漠然としているのだけれど、「確信」に通じる強さもある。

 また、視点を少し変えますね。
 「わかります」というとき、「主語」は何なのだろう。「わたしにはわかります」だから「わたし」が主語なのだけれど、「何で」わかるのだろう。「わたし」の体に属することばでいうと「何で、何を通して」わかるんだろう? 手ではわからないですね。指でもわからないですね。目や耳は、どうかな?

 「娘さんのこころ」

 そうですね、「こころ」でわかるんだと思います。「こころ」というのは、証拠みたいなものと比べると何が違うだろう。

 「こころは目には見えない。意識。物質ではない。でも、いろいろなことはつながっていて、それは感じることができる」

 「証拠」は「客観」ですね。「客観」の反対のことばは「主観」ですね。「主観」で「わかる」。一連目に書いてあることは、「主観」ということになると思う。「主観」は「こころ」。「こころ」が書いてある。父に恋人がいるということは、「証拠」として知っているのではなく、「こころ」で「わかっている」だけ。
 これは、また言いなおすと、「こころ」で「思う」ということですね。「こころ」で「わかっていると思う」。
 だから「ハハにないしょです」というのかもしれない。傷つけたくないという気持ちもあるだろうけれど、証拠がないから言えない、ということもあるかもしれない。「思っている」ことで事実ではないかもしれないからいえない。でも、確信している。少し複雑です。

 二連目に進みます。
 「わるいことをしていますが/チチはあくにんではない」というのは「事実」(客観的なことがら)ですか? 「事実」であるかもしれないけれど、客観ではなく、主観、あくまで思っていることですね。
 だから、この二連目には「思う」を補うことができます。補うと自然に聞こえる。

チチはあくにんではない「と思う」

チチを好きになってしまったのです「と思う」

 谷川の書いていることばは断定だけれど、ほんとうは「思う」が省略されている。「断定」してまうのは、「思い方」が強いからですね。一連目の「わかります」は「思う」が強くなったもの、「確信」のようなものでしたね。
 二連目も

チチはあくにんではない「とわかります」

チチを好きになってしまったのです「とわかります」

 でもいいのだけれど、こういうとき「わかります」はちょっとつかいにくい。これは「確信」とはいいにくい。特に「チチを好きになってしまったのです」は会ったこともない人なので、「わかります」と断定的にはいいにくい。そして、「わかります」がないぶんだけ、二連目はことばの調子がやわらかくなっていると感じませんか?

チチはあくにんではない「と思う」

チチを好きになってしまったのです「と思う」

 「思う」の方が私は自然だと思う。
 それにあわせるような形で「わるいとおもいながらも」と「思う」という動詞が二連目でつかわれている。「わるいとわかりながら」「わるいと知りながら」「わるいと気づきながら」でもない。あくまでも「わるいとおもいながら」。
 二連目で「思う」という動詞が隠されるような形でつかわれているけれど、これは重要なことだと私は思う。

 三連目に進みましょうか。「……と思う」は、三連目には補えるだろうか。
 最初の二行については、どうですか?

 「わたしはハハとふたりで/せんたくものをほしています、は目の前で起きている事実だから、思うは付け加えられない」
 「チチのこいびとはひとりで/なにをしているのかな、と思う。付け加えられる」

 私もそう思います。「恋人は何をしているかな」には「思う」は付け加えられる。付け加えると「意味」がはっきりする。「散文」に近くなる。
 また「思う」をつけると、その前に書かれていることの「意味」がすこし弱くなりますね。「わかります」と断定したときに比べると、弱くなっている。
 一連目の動詞「わかります」が、二連目で「思う」になって、三連目では、そういう動詞もなくなっている。なんとなくトーンダウンしている。非難しているという感じが消える。

 で、三連目で補った動詞「思う」の「主語」は何?

 「こころ」


 そうですね。主語が「こころ」とわかったとき、やっと詩の中にも「こころ」ということばが出てくる。

わたしのこころはすこし
ひんやりしています

 この「こころ」が、この詩の「主役」だと私は思います。
 詩を最初に読んだとき、「わたしはわかります」と書いてあるので、だれでも詩の主語(主人公)は「わたし」だと思う。そして、その「わたし」というのは誰だろう。何歳くらいだろう、と想像する。
 小説だと、「わたし」に名前があるかもしれない。小説の中で名前が呼ばれたり、年齢の説明が出てくる。学校へ行っているとか、働いているとか。女性とか、男性とかもわかる。
 でも、谷川はそういうことを「わからない」ように書いている。読者の想像にまかせている。
 けれども「主語(主役)」は誰なのかということは、明確に書いている。「こころ」が主役なのだと書いている。

 「こころ」と「……と思う」を補って、詩を読み直すと、こういう感じになる。

うちのチチにはこいびとがいます(こいびとがいると、わたしのこころは思います)
わたし(のこころ)にはわかります
ハハにはないしょです(なぜなら、ハハはそのことを知らないとわたしのこころは思っているからです)

わるいことはしています(とわたしのこころは思っています)が
チチはあくにんではない(とわたしのこころは思います)
こいびとのひともきっと
わるいとおもいながら
チチをすきになってしまったのです(とわたしのこころは思います)

わたしはハハとふたりで
せんたくものをほしています
チチのこいびとはひとりで
なにをしているのかな(とわたしのこころは思います)
おひさまはあたたかいけど
わたしのこころはすこし
ひんやりしています

 書き加えると、しつこいけれど、そういうことになるだろうと思います。

 ここから、もうひとつ、別のことを指摘したいと思います。
 この詩のなかで、このことばがないと詩にならない(作品として成り立たない)というのは、どのことばだと思いますか。どの行だと思いますか?
 前回、「チチ」を「ハハ」に変えられないだろうか、「わたし」が男性だとありえないか。恋人が男ということは考えられないか、というような質問をしました。
 そのとき、入れ替えが可能だということがわかりましたね。
 そうすると、それは絶対に必要なことばというわけではない。
 絶対に言い換えができないことばは、何だと思いますか?

 さっき、「わたしのこころは……と思う」ということばを補って詩を読みましたね。何度も何度も「わたしのこころは……と思う」と言っている。でも、それは省略している。ところが、終わりから二行目に、「わたしのこころ」ということばが出てくる。
 ここは、このことばがないと「意味」が通じなくなる。
 だから、ある意味では、しかたなく書いたんですね。
 それまでは省略できるから省略した。というよりも、「わたしのこころは……と思う」というのは、書いてる谷川にとってはあたりまえ、わかりきっていることなので、書く必要がなかった。別なことばで言えば、書き忘れた。でも、最後は、どうしても書かずにはいられなかった。
 私は、こういう作者がどうしても書かずにはいられなかったことば、書かないと意味が通じなくなることばを「キーワード」と呼んでいます。それはたいていの場合、むずかしいことばではなく、ひとが日常的につかっていることばです。
 ひとは誰でもことばをつかって考えている。でも、それがあまりに日常的なことなので、ことばをつかって考えているとは意識しないし、大事なことばになればなるほど、つかっているとも思わない。無意識に動かしている。その無意識になってしまったことばが、その作者にとっていちばん大事なことば。その作品で書きたかったことばなのだと考えています。
 そのいちばん書きたかった「こころ」と「ひんやりしています」が最後に、思いがけない形でぴっりと結びつく。
 「わたしは、父に恋人がいる、と思う。それは確信に近い。でも、そういうことを思う、わたしのこころは楽しいわけではない。あたたかいわけではない。何かみょうにかなしくて、さみしい。ひんやりとした感じ……」
 詩の感想を語り合ったとき「ひんやりした」がとてもいいという声があったけれど、それは「こころ」とぴったり結びついているからですね。最後のさいごで「こころ」を登場させ、「ここす」に読者の意識を集中させることを狙って書いていると思います。

 さらに、もう一つ別の読み方をしてみます。いまの読み方を少し角度を変えただけなのですが。
 私は「キーワード」と同時に「動詞」に注目して詩を読みます。「動詞」が詩の中でどうつかわれているか。「動詞」に注目するのは、「動詞」というのは「肉体」の動き。自分の「肉体」で確かめることができる。まねすることができる。そういうものは、いつでも信じることができる。
 この詩の場合、「まねする」というのはちょっと難しいかもしれないけれど。「わかる」「おもう」という抽象的な動きなので。
 で、動詞に注目すると、一連目は「わかる」、二連目は「思う」、三連目は動詞の変わりに「こころ」という名詞が登場する。いや、そうではなくて、三連目は「ひんやりする」という動詞がつかわれている。文章にすると「こころで、わかる」「こころで、おもう」「こころが、ひんやりする」と動詞の使い方、動詞の種類が少し違う。他動詞と自動詞(でいいのかな?)と違うのだけれど、「こころ」が主語として共通する。「こころ」を共通させながら、動詞を少しずつ変化させて、その変化の中に意味をこめいてる。
 そして、そうやって「キーワード」と「動詞」を組み合わせ直してみると、

わたしのチチにはこいびとがいるとわかります。そしてそのとき、わたしのこころは、「わくわく」でも「ほんわか」でもなく「ひんやりします」

 こういうことが書かれているのだ、私は思います。最後の二行が印象的なのは、そこに谷川の書きたいことが集中しているからですね。
 これはあくまで、私の読み方、私の感想です。


 「つばさ」を読んでみましょうか。

はとにはつばさがある
ちょうちょにもはえにもつばさがある
でもわたしにはつばさがない
それがうんめいというものだとおもう

わたしもそらをとぶけど
ひこうきはうるさい
にんげんはそらをとばなくていい
そらにあこがれているだけでいい

でもやっぱりわたしはとびたい
じぶんひとりでとびたい
だれにもたよらず なににもたよらず
ふんわりあおぞらにうかびたい

どこへもいかなくていい
わたしはただ…ただ…わたしは…
ちきゅうからはなれたいだけ…なんて…
いったいわたしはどうしたいのだろう

 この詩の「キーワード」は何だと思いますか?
 「ない」と「ある」が繰り返されていますね。「できない」と「できる」と言いなおされてもいる。「ある」は「いる」とも言いなおされている。二連目の「そらにあこがれているだけでいい」は「そらへのあこがれがあるだけでいい、あこがれることができるだけでいい」。
 「できない」は「したい」ということば「対」になっている。また「したい」は「とうしたいのだろう」という疑問とも「対」になっている。
 こういう「対」になっていることばは、「論理」を動かすときに必要なものですね。これも確かに必要なんだけれど、こんなふうに形を変えながら何度も出てくるということは、「キーワード」とは少し違う。
 書かずにいられないことばとは少し違うと私は考えています。

 そう思って読んでいくと、三連目に「じぶんひとりで」ということばがある。
 「つばさをつかわずに、じぶんひとりで」飛びたい。「ひこうきにのらずに、じぶんひとりで」飛びたい。「じぶんひとりで」は「だれにもたよらず なににもたよらず」ということですね。
 でも、「ひとり」だとどうなるのだろう。
 もしひとりなら、「はと」や「ちょうちょ」さえいなかったら「つばさ」に気がつくことはない。自分に「ない」ものがほかのものに「ある」から、自分に「できない」ことがあり、ほかのひとには「できる」ことがあるから、ひとはあれこれ考える。
 「ひとり」というのは、どういうことなんだろう。
 宇宙の真ん中で、自分が「ひとり」。これを強調して、四連につかわれている「ただ」を補うこともできる。「ただひとり」。孤独。その孤独が瞬間的につかみ取る「わたしいがいのもののいのち」との交流が「宇宙」そのものをつくっていく。
 これは谷川の多くの詩に共通する「感覚」だと思う。そういうものを谷川は書きたいのだと私は感じています。






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