詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本真維子「皆神山のこと」

2020-07-28 17:21:49 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本真維子「皆神山のこと」(「イリプスⅡ」31、2020年07月10日発行)

 杉本真維子「皆神山のこと」は四連で構成され、「起承転結」になっている。いや、起承転結ではないのかもしれないが、三連目が「意味」だけではなく、ことばのリズム、選ばれていることばが異質なので、「転」を連想させる。
 そして。
 ここが問題。三連目だけ、ことばのトーンが違う。そのことによって、ことば全体を二重化する。その「二重性」を感じさせるところに詩があるというか、詩を感じるのだが……。
 起承転結というのは、つづめて言うと、最初と最後、かけ離れたものを結合し閉じることで、世界を二重化することなのだ。ものと、ことばの二重化。「ふつうの意味のことば=もの(存在)」と「ことばだけでとらえることができる精神世界」を結びつけ、二重化し、「精神世界」への移行をうながす運動なのだ。
 でも、どうなんだろう。
 杉本のことばは、この作品の中では「片手落ち」ということばをめぐって動く。一連目に出てきて、それを追いかけ、「起承転結」を展開し、「片手落ち」でおわる。
 この「完結性」は、詩というよりも「小説」ではないだろうか。飛躍というよりも論理的結論と言えばいいのか……。

皆神山のふもとにすむ
こやまというひとに
近親の死を
片手落ち、と言われたことがある
あれは、鼻歌のような
陽気な吉日
現代的な駐車場から、
ふわっふわっと、
白衣が揺れるのを見た
ふだんは薬剤師をしているという

 ここには、多くの省略がある。省略せずに書けば「小説」になるものが、省略によって詩になっている。このときの詩とは、「ことば」が「ことば」として存在するということである。「ことば」は「ことば」であることを頼りに、そこに存在しているという「不安定」な感じが、想像力を刺戟し、想像力によって飛躍せよと読者に呼びかける。それを詩だと感じさせる。
 言い直すと。
 
片手落ち、と言われたことがある

 だれが、そう言われたのか。読者はどうしてもここで、そうかんがか手しまう。書かれていないから。書かれていないことを考えるように、ことばが動いている。これを想像力を刺戟すると私は呼んでいる。
 ふつうの詩ならば(あるいは、私小説でもそうかもしれないが)、「私」が言われたのである。作品の「主役」は「私」。でも、この作品では、「私」は完全に杉本と重なるわけではない。
 で、それが証拠に、二連目。

導かれ
別の日には
皆神山でおみくじをひいた
あの群発地震の観測所も
松代大本営跡も見学し
よい思い出であった
けれど
集合場所には誰よりも早く到着し
礼を尽くしているような顔をして
ほんとうは周囲を牽制していた
そういう社会性のある男には
どうしてもなりたくなかった
だから
皆神山よ

 「そういう社会性のある男には/どうしてもなりたくなかった」。一連目の「こやまというひと」は「社会性のある男」と言い直され、「そういう男にはなりたくなかった」。もし、省略されている「私」が杉本であるならば、二連目は「そういう社会性のあるひとには/どうしてもなりたくなかった」であるだろう。杉本は女なのだから。
 もちろん杉本は、ここに書かれている(書かれていないが、登場する)「私」は架空の存在であり、杉本自身ではない。架空の存在を「男」と想定し、ことばを動かしていると言い張ることはできる。つまり、「論理」はあとからテキトウに説明できる。(論理はいつでも「後出しじゃんけん」である。だから、私はそれを信じない。)
 私が指摘したいのは「ひと/男」という「二重性」のなかでことばが動き、その「二重性」を利用して(罠に誘い込むようにして)「ストーリー」がすすめられていく。それが「小説」の構造なのだということである。
 よく読まずに書くのだが、杉本は、非常に「論理性」の強い文体を生きている。そして、論理性の強さゆえに、論理にならないものがぽきっぽきっと折れるようにして噴出する。そこにことばの悲鳴のようなものが聞こえ、それが詩を感じさせる。
 まあ、こんな「感覚的」なことは読まずに書けることである。(読まずに書くのだが、と書いたのは、そういう意味である。)
 だから、そういうことはメモとして残しておくことにして……。
 論理性、散文性を説明しなおすと、こういうことである。
 「集合場所には誰よりも早く到着し/礼を尽くしているような顔をして/ほんとうは周囲を牽制していた」という人間観察力、あるいは批評性。これは、どうしても「散文」のものである。「事実」を積み重ねて(集合場所には誰よりも早く到着し/礼を尽くしているような顔をして)、その上で「結論」を提出する。「ほんとうは周囲を牽制していた」と。
 詩は、こういう面倒なことをしない。
 ただ「結論」があって(あったと仮定して)、それを次々に解体し「意味」を「無意味」に変えていくのが詩だ。

 あっ、脱線したか。
 でも、どこから脱線したのか、それがよくわからない。意外と、脱線したところにこそ「線路」があるべきだったのかもしれない。
 引き返してみる。

 「片手落ち、と言われたことがある」とは、誰が言われたのか。わからない。わかることは「言われた」という「過去」と、それを「ある」という「現在」形で思い出しているという「二重性」である。「過去」は存在するように見えるが、それはいつでも「ある」という形でしか表現できないという問題がある。思い出した瞬間、「過去」は「いま」と区別がつかない。「時間の距離感」が存在しない。
 あらゆることが、ことばのなかでは「距離感」を失う。そして二重化する。
 「現代的な駐車場から、/ふわっふわっと、/白衣が揺れるのを見た」。誰が、白衣を見たのか。そもそも「白衣」を見たのか、「揺れる」を見たのか。さらに「ふだんは薬剤師をしているという」のは、誰のことか。「白衣」のひとか、それとも「こやまというひと」か。こういうことは、書いている杉本には「解決済み」のことである。しかし、読者にとっては「未解決」というか、初めて聞かされることである。
 既知と未知が出会う。
 このとき、「未知」こそが詩である。「未知」を印象づけるために「既知」を論理的には提出しない、という「手法」が、ここでは選ばれていることになる。これは「小説」というよりも「芝居(演劇)」の手法であると捉えた方がいいかもしれない。
 「芝居(舞台)」のよしあしは、役者が「過去(既知)」を舞台にあらわれた瞬間、どれだけ抱え込んでいるか、役者の過去を「未知」の手触りとして感じさせるか。これを「存在感」というが、そういうものが「こやまというひと」に託され、それを利用して、杉本のことばは「二重性」を運動そのものに変えていく。
 未知の存在感(過去がある、と感じさせること)を利用して、杉本は詩を「演出する」野である。演出家が訳者の存在感を利用して、芝居にリアリティを与えるように、杉本は「過去があると感じさせることば」を利用して、作品にリアリティを与えていく。「近親の死を/片手落ち、と言われたことがある」。この行を読まされたら、どうしたって、私(読者)の知らない「過去」が書かれている、と感じるでしょ?

 ああ、だんだん、ことばの動きが面倒になってきた。端折ってしまおう。
 杉本の作品の最後は、こうである。

強制労働のころ、一本の丸太を枕に、並んで眠られれた
朝は、丸太の端を、一度打たれて
一斉に叩き起こされた
やはり、片手落ち、と言われた

 「眠らされた」「叩き起こされた」のはだれか。「こやまというひと」か。もしかすると、「杉本」かもしれない。話を聞きながら、「こやまというひと」になっているのかもしれない。「叩き起こされ」て、目がさめて、ほら、知らなかっただろう。そういうことを「片手落ち」というのだ、と、「杉本」は言われた。
 覚醒の中で、「こやまというひと」と「杉本」が、ずれながら重なる。この「二重化」の運動が書かれているのだと思う。
 で。
 ちょっと追加すれば、この最後の一行には「ことがある」がやはり省略されているのだ。

やはり、片手落ち、と言われた「ことがある」

 そう補うと、一連目と重なることがよくわかる。
 「ことがある」ことがあったのだ。何かが起きて、それが「既知(存在感)」に変化して存在したことがある、ということがあったのだ。それが、あるのだ。
 でも、杉本は「ことがある」を書かない。断ち切ってしまう。ここではあえて「言われた」と「過去」を放り出す。「存在感」そのものを放り出す。その「過去」を拾いに行くとき、読者は、「杉本」になる。「杉本」になって、「言われたことがある」を自分の問題として引き受けてしまう。








**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」6月号を発売中です。
132ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079402



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 破棄された詩のための注釈01 | トップ | 2020年07月28日(火... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩(雑誌・同人誌)」カテゴリの最新記事