神山睦美、野村喜和夫、文月悠光「その先にある、詩の希望」(「現代詩手帖」2014年12月号)
神山睦美、野村喜和夫、文月悠光が鼎談している。そのなかで、とても気になることばがあった。池井昌樹の『冠雪富士』について語っている部分。神山睦美が、
「思想のような場所とは違うところ」とは何だろう。「思想」とは何だろう。
神山はポストモダンとかハイデガーとかパウンドとかデリダとかツェランとかアンナ・ハーレントとか、膨大な人名を出して語っているが、そういう「西洋の思想」を指してのみ「思想」と呼んでいるのだろうか。
私は「思想」をもたない人間はいない、と考えている。「肉体」と「思想」は同じものであって、人間が「肉体」であるかぎり、生きているひとはみな「思想」を具体化している。ことばは「思想」そのものであると感じている。
たとえばフーテンの寅さんは「それを言っちゃあ、おしめぇよ」とよく口にするが、それは寅さんの思想である。だから、それに共感する人もいる。
ひとは誰でも幸福になりたいと思っている。みんなが幸福になるためにはどうすればいいのだろうと思っている。みんなが幸福になるということを願わない「思想」なんか、ない。すべてのことばが「思想」である。
自分が信じている「思想」以外を「思想」から排除するのは、どういうものなのだろう。
これは美しい月をいっしょに見る幸福の描写。詩は、これだけで終わるわけではないが、こういうことを「幸福」と思うのは「思想」である。母といっしょに童心に返って美しい月を見て放心するという幸福を、神山は知らないのだろうか。そういう瞬間を幸福と呼ぶ「思想」を知らないのだろうか。
神山はアンナ・ハーレントを引用しながら「共苦」ということばをつかっている。こんパッション、苦しみにどう共感するか、ということを問題にしている。いま引用した部分には「苦しみの共感」が描かれていないから、「思想」ではないというのだろうか。
でも、「かたをならべてみあげていたが」の「が」に注目するなら、池井は楽しい一瞬だけを描いているわけではないことがわかる。母と楽しい時間を共有できない悲しさ、苦しさをも書いている。
ここにひとりの人間が生きて苦悩していると感じないのだろうか。それは「共感」に値しない苦しみ、「思想」とは無関係な「苦しみ」なのだろうか。
あるいは、
これは息子のことを思いながら働く姿。そこには「苦しさ」はないか。苦しみながら、それでも息子のことを思う喜びはないか。そういうふうに働く親には「思想」はないのか。
行分け詩ではなく、散文詩が問題だというのだろうか。「雲の祭日」はどうか。突然電話が通じなくなった息子を心配して、アパートまで妻といっしょに行ってみる。元気に顔を見せた息子に、心配したと言えずに一万円渡して、元気になるものを食えという。その帰り道。
ここに書かれている安心と情けないような喜び。これは「思想」ではないのか。
だいたい「共苦(コンパッション)」と、どういうことなのか。
私は、キリスト教徒でもないし、聖書も読んだことはないが、映画や小説で聞きかじった範囲で言えば、このことばはキリスト教(あるいはユダヤ教)と深い関係がある。キリストは人間の苦しみを背負うことで人間を浄化した。苦しみによる浄化という考えと結びついた発想だと思う。
神山がキリスト教徒ならそれでもいい。日本がヨーロッパのようにキリスト教を基本にした国なら(多くの人がキリスト教になじんでいるなら)、まだ「共苦」ということばもわからないではない。
でも、日本人の多くは、キリストの苦しみによる人間の浄化などという考えを自分の「肉体」として感じているだろうか。身近にそういう人間を見ているだろうか。
私は無宗教だが(宗教に自分の生き方を結びつけてきたことはないが)、私の母などは、自分ではどうしようもできないことが起きたとき、仏壇の前で「なんまいだ、なんまいだ」と繰り返していた。これは「他力本願」と言えばいいのか、浄土真宗そのもの。自分の苦しみは仏様が助けてくれる。仏様に何とかして、と祈る。母は何か勘違いしているかもしれないが、まあ、そこには「共苦」というような考えはないなあ。「共苦」も「コンパッション」ということばも、わけがわからないだろうなあ。でも、母に「思想」がなかった、とは私は思ったことがない。
さらに、倉橋健一の『唐辛子になった赤ん坊」について、
と語る。なぜ、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」しないといけないのか。どこへ到達したっていいだろう。倉橋は「デリダやツェランの文脈」(ヨーロッパの文脈)を生きているのだろうか。
私は倉橋のことを知らないからわからないけれど、倉橋はヨーロッパで育ったのだろうか。その宗教風土を生きてきたのだろうか。ぜんぜん違うところで生きてきたのに、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」してしまったなら、それはどこかで何かを間違えていないだろうか。ぜんぜん違う暮らしを生きてきながら「デリダやツェランみたいなところに」「到達」したら、それは変じゃないだろうか。
また、野村は八木忠栄の『雪、おんおん』について、次のように語る。
これって、「思想」を評価している? 「思想」として評価している?
私は「思想」として評価していると読んだのだが、神山は、この「思想」に対してはどう思っているのかわからない。「デリダやツェランみたいなところに」「到達」している? していないなら、それを評価するときの基準は?
それにしても……。
「思想」と「土俗」か。妙だねえ。
わからないことは、いろいろあるのだけれど、まあ、私の母の「なんまいだ、なんまいだ」も「土俗」の類なんだろうなあ。母は詩など書かないし、本も読みはしないが、それでも「思想」はある。暮らし(田舎の、土まみれの生活)のなかで見聞きして身に着けた考えがある。「土俗」というより土がついている「土着」、土地にへばりついている「土着」かもしれないが。
しかし、わけがわからないなあ、と感じるのは、なぜ神山は「デリダやツェランみたいなところ」を、ヨーロッパを「基準」にして日本の詩を考えるのだろう。
たとえばキリスト教と同じ一神教のイスラム教には「共苦」というようなことばがあるんだろうか。私は「コーラン」も読んだことはないから知らないが、映画なんかで見る限りイスラム教徒には「共苦」が世界を浄化するという考え方はないなあ。
あ、ここでイスラム教を突然出したのは、実は、理由がある。
ときどき日本の詩を問題にして、それを批評しているのに、まったく違う文脈の発言が「評価」の基準として動いているを見ることがある。たとえばだれそれの詩を評価するのに、井筒俊彦の哲学を持ち出して、誰それの詩は井筒哲学と合致する、ゆえに誰それの詩は世界レベルである云々……。変だよねえ。そんなに井筒俊彦の書いていることと詩が関係するなら(あるいは井筒俊彦に詳しいなら)、こういう鼎談のときにイスラム教の視点から見るとというような発言があってもいいのになあ、と思う。
あるいは孔子を引用して「論語」から見ると、とか、中南米の思想からいうととか、アフリカの経済的視点から見るととかね。
ヨーロッパ中心の哲学ヒエラルキーで日本の詩を読んで、そこから何が出てくるのだろうか。
神山睦美、野村喜和夫、文月悠光が鼎談している。そのなかで、とても気になることばがあった。池井昌樹の『冠雪富士』について語っている部分。神山睦美が、
行分け詩はいいのですが、散文詩がちょっと異色かなと感じます。でも池井さんは思想のような場所とは違うところで書いているから、それはそれでいいのかなと。
「思想のような場所とは違うところ」とは何だろう。「思想」とは何だろう。
神山はポストモダンとかハイデガーとかパウンドとかデリダとかツェランとかアンナ・ハーレントとか、膨大な人名を出して語っているが、そういう「西洋の思想」を指してのみ「思想」と呼んでいるのだろうか。
私は「思想」をもたない人間はいない、と考えている。「肉体」と「思想」は同じものであって、人間が「肉体」であるかぎり、生きているひとはみな「思想」を具体化している。ことばは「思想」そのものであると感じている。
たとえばフーテンの寅さんは「それを言っちゃあ、おしめぇよ」とよく口にするが、それは寅さんの思想である。だから、それに共感する人もいる。
ひとは誰でも幸福になりたいと思っている。みんなが幸福になるためにはどうすればいいのだろうと思っている。みんなが幸福になるということを願わない「思想」なんか、ない。すべてのことばが「思想」である。
自分が信じている「思想」以外を「思想」から排除するのは、どういうものなのだろう。
それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
むすこはははのとなりにすわり
それはきれいなおつきさま
かたをならべてみあげていたが (「手の鳴るほうへ」)
これは美しい月をいっしょに見る幸福の描写。詩は、これだけで終わるわけではないが、こういうことを「幸福」と思うのは「思想」である。母といっしょに童心に返って美しい月を見て放心するという幸福を、神山は知らないのだろうか。そういう瞬間を幸福と呼ぶ「思想」を知らないのだろうか。
神山はアンナ・ハーレントを引用しながら「共苦」ということばをつかっている。こんパッション、苦しみにどう共感するか、ということを問題にしている。いま引用した部分には「苦しみの共感」が描かれていないから、「思想」ではないというのだろうか。
でも、「かたをならべてみあげていたが」の「が」に注目するなら、池井は楽しい一瞬だけを描いているわけではないことがわかる。母と楽しい時間を共有できない悲しさ、苦しさをも書いている。
そんなうそならもうたくさん
としおいたははおきざりにして
むすこはこんやものんだくれ
ホームのベンチでよいつぶれ
ゆめみごこちできいている
ここにひとりの人間が生きて苦悩していると感じないのだろうか。それは「共感」に値しない苦しみ、「思想」とは無関係な「苦しみ」なのだろうか。
あるいは、
あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
つめたいあめのあけがたに
あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた (「夢中)
これは息子のことを思いながら働く姿。そこには「苦しさ」はないか。苦しみながら、それでも息子のことを思う喜びはないか。そういうふうに働く親には「思想」はないのか。
行分け詩ではなく、散文詩が問題だというのだろうか。「雲の祭日」はどうか。突然電話が通じなくなった息子を心配して、アパートまで妻といっしょに行ってみる。元気に顔を見せた息子に、心配したと言えずに一万円渡して、元気になるものを食えという。その帰り道。
一万円は痛かったな。いいよ、
それくらい。夕闇の籠め始めた帰路、バスに乗ればよいものを、私
も妻も何か高揚して歩道を歩んだ。子がいてくれるのは、いいな。
うん。そしてまた黙って歩いた。遠くを台風が過ぎるらしい夕映え
の終わりの空には様々な姿した雲が様々に姿変えつつ流れ、だんだ
ん涼しくなってきた。背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。ヒトのこ
と、言えるか。私は応えた。肩を並べて初めての帰路だったが、家
にはまだ、まだ遠いのだ。
ここに書かれている安心と情けないような喜び。これは「思想」ではないのか。
だいたい「共苦(コンパッション)」と、どういうことなのか。
私は、キリスト教徒でもないし、聖書も読んだことはないが、映画や小説で聞きかじった範囲で言えば、このことばはキリスト教(あるいはユダヤ教)と深い関係がある。キリストは人間の苦しみを背負うことで人間を浄化した。苦しみによる浄化という考えと結びついた発想だと思う。
神山がキリスト教徒ならそれでもいい。日本がヨーロッパのようにキリスト教を基本にした国なら(多くの人がキリスト教になじんでいるなら)、まだ「共苦」ということばもわからないではない。
でも、日本人の多くは、キリストの苦しみによる人間の浄化などという考えを自分の「肉体」として感じているだろうか。身近にそういう人間を見ているだろうか。
私は無宗教だが(宗教に自分の生き方を結びつけてきたことはないが)、私の母などは、自分ではどうしようもできないことが起きたとき、仏壇の前で「なんまいだ、なんまいだ」と繰り返していた。これは「他力本願」と言えばいいのか、浄土真宗そのもの。自分の苦しみは仏様が助けてくれる。仏様に何とかして、と祈る。母は何か勘違いしているかもしれないが、まあ、そこには「共苦」というような考えはないなあ。「共苦」も「コンパッション」ということばも、わけがわからないだろうなあ。でも、母に「思想」がなかった、とは私は思ったことがない。
さらに、倉橋健一の『唐辛子になった赤ん坊」について、
デリダやツェランの文脈とは違いますが、(略)キルケゴール的なものをもってきながら考えている。いずれにしても、到達点にそうした生贄や犠牲のようなものがやってきた。(略)最後までデリダやツェランみたいなところに、倉橋さんなりの視線で到達していく。
と語る。なぜ、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」しないといけないのか。どこへ到達したっていいだろう。倉橋は「デリダやツェランの文脈」(ヨーロッパの文脈)を生きているのだろうか。
私は倉橋のことを知らないからわからないけれど、倉橋はヨーロッパで育ったのだろうか。その宗教風土を生きてきたのだろうか。ぜんぜん違うところで生きてきたのに、「デリダやツェランみたいなところに」「到達」してしまったなら、それはどこかで何かを間違えていないだろうか。ぜんぜん違う暮らしを生きてきながら「デリダやツェランみたいなところに」「到達」したら、それは変じゃないだろうか。
また、野村は八木忠栄の『雪、おんおん』について、次のように語る。
死者も生者も不分明に溶け合って作り出される、明るい土俗ともいうべき時空が展開し、終わりなき青春に勝るとも劣らない不思議なエネルギーをはなっているです。
これって、「思想」を評価している? 「思想」として評価している?
私は「思想」として評価していると読んだのだが、神山は、この「思想」に対してはどう思っているのかわからない。「デリダやツェランみたいなところに」「到達」している? していないなら、それを評価するときの基準は?
それにしても……。
「思想」と「土俗」か。妙だねえ。
わからないことは、いろいろあるのだけれど、まあ、私の母の「なんまいだ、なんまいだ」も「土俗」の類なんだろうなあ。母は詩など書かないし、本も読みはしないが、それでも「思想」はある。暮らし(田舎の、土まみれの生活)のなかで見聞きして身に着けた考えがある。「土俗」というより土がついている「土着」、土地にへばりついている「土着」かもしれないが。
しかし、わけがわからないなあ、と感じるのは、なぜ神山は「デリダやツェランみたいなところ」を、ヨーロッパを「基準」にして日本の詩を考えるのだろう。
たとえばキリスト教と同じ一神教のイスラム教には「共苦」というようなことばがあるんだろうか。私は「コーラン」も読んだことはないから知らないが、映画なんかで見る限りイスラム教徒には「共苦」が世界を浄化するという考え方はないなあ。
あ、ここでイスラム教を突然出したのは、実は、理由がある。
ときどき日本の詩を問題にして、それを批評しているのに、まったく違う文脈の発言が「評価」の基準として動いているを見ることがある。たとえばだれそれの詩を評価するのに、井筒俊彦の哲学を持ち出して、誰それの詩は井筒哲学と合致する、ゆえに誰それの詩は世界レベルである云々……。変だよねえ。そんなに井筒俊彦の書いていることと詩が関係するなら(あるいは井筒俊彦に詳しいなら)、こういう鼎談のときにイスラム教の視点から見るとというような発言があってもいいのになあ、と思う。
あるいは孔子を引用して「論語」から見ると、とか、中南米の思想からいうととか、アフリカの経済的視点から見るととかね。
ヨーロッパ中心の哲学ヒエラルキーで日本の詩を読んで、そこから何が出てくるのだろうか。
現代詩手帖 2014年 12月号 [雑誌] | |
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デリダ、ドゥルーズ、フーコーが日本の詩について発言しているのだったら、それについて何かいうことはできると思います。
彼らが日本の詩について発言していないのだったら、彼らから「思想」を借りてこなくてもいいのでは、というのが私の考えです。
詩作における主題と方法は、「読まれる」段階で、すでになにかを読者と共有している。そこに深い共感がある。つまり読者が詩人を支持しているのは詩人の表現に顕現された思想内容ではないかと思うのです。
借り物である限りいつか破綻します。ニーチェ的に言えば、ブランショ的に言えば・・・とした文章はその破綻傾向のひとつであり、「私が思うに」という前提の言葉が必須かなと思いますが。