望月苑巳「だらしない物語」(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)
望月苑巳「だらしない物語」は大切な人を亡くした悲しみが静かに揺れている。
前半は母の記憶だろう。月夜の梅のような、まぶしく美しい母の記憶。その母を(妻を)亡くして、父は、ずぶぬれになって歌を歌っている。母が歌っていた子守唄。それは望月が聞いた子守唄だが、そのとき父も一緒に聞いていたのだ。子守唄に、父の悲しみを知る望月。望月自身も悲しいが、父も悲しい。
ひとの悲しみを知るのは悲しい。
くりかえされる行末の「よ」は、ことばの断定をやわらかくする。悲しみを受け止めるには、何かしらのやわらかいものが必要なのだ。
母がなくなり、その亡くなったこともふと忘れてしまったとき、もう一度、大事なひとの死がやってくる。父の死。
そのとき、ふいに思い出すのだ。父が、母が死んだときに悲しんでいたことを。
その悲しみを、望月は心底理解していたわけではなかった。なぜなら、彼自身が悲しかったから。自分自身が悲しく、そして、同じように(それ以上に)悲しんでいる父を見て、また別の悲しさ、せつなさを感じた。
そういうことも、ふと、忘れてしまう。
時間のなかで。
「忘却」という名の「始末書」。ひとは忘れるものなのだ。「だらしない」のだ。その「だらしなさ」に気づいたとき、また、悲しみが新しくなる。
どうすることもできない悲しみを、「だらしない」と呼ぶことで、自分自身を叱ってみる。そんなふうに叱るしかない。その悲しみ。
その悲しみを支えてくれるひとがないから、自分で支える。「よ」というやさしいことばで。
とても美しい「よ」である。
望月苑巳「だらしない物語」は大切な人を亡くした悲しみが静かに揺れている。
闇夜は星が美しい
月の出た夜はひとが美しい
梅の香りをまとって笑っているよ
月の光も香っているよ
でもね
雨の降る日は
天の涙に表札が磨かれて
大根のように冷たくなるよ
ずぶぬれで帰ってきた父は
母さんが置いて行った
子守唄をうたっているよ
赤ん坊をあやすように
空のご機嫌をとるように
泣きたくなるような子守唄だったよ
前半は母の記憶だろう。月夜の梅のような、まぶしく美しい母の記憶。その母を(妻を)亡くして、父は、ずぶぬれになって歌を歌っている。母が歌っていた子守唄。それは望月が聞いた子守唄だが、そのとき父も一緒に聞いていたのだ。子守唄に、父の悲しみを知る望月。望月自身も悲しいが、父も悲しい。
ひとの悲しみを知るのは悲しい。
くりかえされる行末の「よ」は、ことばの断定をやわらかくする。悲しみを受け止めるには、何かしらのやわらかいものが必要なのだ。
人間は二度死ぬ
最初は焼かれて灰になった時
二度目は存在したことを忘れられてしまった時
そんな始末書の脇で
ぼくが冷たくなっているよ
開いた瞳孔が青空を吸い取ってしまったのか
朝から雨
だらしない雨だよ
きのうまで蛇口で水を飲み
好きな物を食べて
堂々と人を好きになったりもしたのに
だらしないったりゃ、ありゃしない
劣化してゆく、ぼく
退化してゆく鍋の底に
溜まっていたのは
使い方を間違えた父の靴紐
何も知らなかったあるころに帰って
だらしない雨に打たれ
三度目の死を迎えるよ
だらしないぼくの物語だよ
母がなくなり、その亡くなったこともふと忘れてしまったとき、もう一度、大事なひとの死がやってくる。父の死。
そのとき、ふいに思い出すのだ。父が、母が死んだときに悲しんでいたことを。
その悲しみを、望月は心底理解していたわけではなかった。なぜなら、彼自身が悲しかったから。自分自身が悲しく、そして、同じように(それ以上に)悲しんでいる父を見て、また別の悲しさ、せつなさを感じた。
そういうことも、ふと、忘れてしまう。
時間のなかで。
「忘却」という名の「始末書」。ひとは忘れるものなのだ。「だらしない」のだ。その「だらしなさ」に気づいたとき、また、悲しみが新しくなる。
どうすることもできない悲しみを、「だらしない」と呼ぶことで、自分自身を叱ってみる。そんなふうに叱るしかない。その悲しみ。
その悲しみを支えてくれるひとがないから、自分で支える。「よ」というやさしいことばで。
とても美しい「よ」である。
紙パック入り雪月花 (21世紀詩人叢書)望月 苑巳土曜美術社このアイテムの詳細を見る |