詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平松洋子評「渡辺裕一『小説家の開高さん』」

2009-09-07 01:05:14 | その他(音楽、小説etc)
平松洋子評「渡辺裕一『小説家の開高さん』」(「朝日新聞」2009年09月06日朝刊)

 朝日新聞の書評欄。平松洋子が、渡辺裕一の『小説家の開高さん』を紹介している文章の最後の方。

 「骨董屋の善二さん」では、湯島の居酒屋「シンスケ」の主人が燗(かん)をつけるとき、徳利(とっくり)の尻をさりげなく撫(な)でて温度をたしかめる場面が描かれる。
 「その手つきは手練(てだれ)の痴漢にも似て自然であり、悩ましい」
 ああもう。わたしもあの所作にはおおいに反応するものだが、当意即妙。

 この部分だけで、渡辺裕一の『小説家の開高さん』が読みたくなる。すぐれた批評というのは余分なことは書かなくていい。ただ、この部分がよかった、と書くだけていいのだ。

 で、(というのは変だけれど)。
 ちょっと気がかりな部分。引用した部分の前の方にあるのだけれど。

 釣り三昧(ざんまい)の一カ月の回想を綴(つづ)ったこの短編のなかに、釣り人としての開高健の本質をざぶりと洗いだす一行がある。わずか十三文字。しかし誰もけっして書かなかったそらおそろしい一行が、「小説家の開高さん」の深淵(しんえん)をのぞきこませる。

 あ、これは、いやだなあ。平松としては、その一行は本を手にとって読んでもらいたいということで伏せてあるのだろうけれど、うーん、買いたくなくなる。燗の手つきの部分は、それがほんとうに書いてあるのか確かめるために買って読みたくなるけれど、この思わせぶりの部分は、私は読みたいとは思わないなあ。
 ほんとうにおもしろいのなら、どうしても、書いてしまう。燗の部分のように。思わず書かずにはいられないほどはおもしろくないのかもなあ、と私は疑問に感じてしまったのだ。

 書評は難しいねえ。



小説家の開高さん
渡辺 裕一
フライの雑誌社

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