監督 デビッド・リーン 出演 キャサリン・ヘプバーン、ロッサノ・ブラッツィ
キャサリン・ヘプバーンはうまい、というようなことはいまさら言っても感想にもなんにもならないだろうが、やっぱりうまい。恋愛とセックスを求めているのに、それをすなおに言い表すことができず、強引に自己主張してしまう。いやな女だ。だが、いやな女と思わせる前に、さびしいという感じを伝えてくる。「さびしい」にこころが動いて、「いやな女」と思っている暇がない。
ただあまりに人間造形がくっきりしているために、映画というよりも舞台の演技を見ている感じになってしまう。そこにある「肉体」という感じ。
これをデビッド・リーンがベネチアの空間に引き出すのだが、なかなかむずかしい。完璧な美(「ライアンの娘」の海岸、「アラビアのローレンス」の砂漠)と「さびしい」を向き合わせてしまっては、非情になってしまう。(と、私は思う。)
でも、やっぱりすごい、デビッド・リーンはすごいなあ、と思うのは、くちなしのシーン。
キャサリン・ヘプバーがくちなしを橋の上から運河に落としてしまう。くちなしが流れていく。ロッサノ・ブラッツィがそれを拾おうとする。それを水に映った二人の影像の中をくちなしが横切っていくという形で表現する。
このとき、ふたりのこころのなかを一つのもの(一つのこと)が貫く。それは結局、手の中に取り戻すことはできないのだが、その取り戻すことのできないものが二人を横切り、二人をつなぐ--という象徴的なシーンが、とても美しい。
この映画、ラストシーン、キャサリン・ヘプバーンが列車の窓から手をふるシーンがあまりにも有名だけれど、私は、運河のくちなしを拾おうとして拾えないシーンが好きだ。ほかのシーンは舞台でも見ることができるが、水に映った二人の肉体の中をくちなしが流れていくというのはカメラで見せることしかできない。映画でしか見ることができない。台詞はキャサリン・ヘプバーンが男の名前を呼ぶだけである。それも、とても映画的だ。影像がすべてであり、台詞(意味のあることば)は必要ない。
(午前十時の映画祭、天神東宝2、2014年09月19日)
キャサリン・ヘプバーンはうまい、というようなことはいまさら言っても感想にもなんにもならないだろうが、やっぱりうまい。恋愛とセックスを求めているのに、それをすなおに言い表すことができず、強引に自己主張してしまう。いやな女だ。だが、いやな女と思わせる前に、さびしいという感じを伝えてくる。「さびしい」にこころが動いて、「いやな女」と思っている暇がない。
ただあまりに人間造形がくっきりしているために、映画というよりも舞台の演技を見ている感じになってしまう。そこにある「肉体」という感じ。
これをデビッド・リーンがベネチアの空間に引き出すのだが、なかなかむずかしい。完璧な美(「ライアンの娘」の海岸、「アラビアのローレンス」の砂漠)と「さびしい」を向き合わせてしまっては、非情になってしまう。(と、私は思う。)
でも、やっぱりすごい、デビッド・リーンはすごいなあ、と思うのは、くちなしのシーン。
キャサリン・ヘプバーがくちなしを橋の上から運河に落としてしまう。くちなしが流れていく。ロッサノ・ブラッツィがそれを拾おうとする。それを水に映った二人の影像の中をくちなしが横切っていくという形で表現する。
このとき、ふたりのこころのなかを一つのもの(一つのこと)が貫く。それは結局、手の中に取り戻すことはできないのだが、その取り戻すことのできないものが二人を横切り、二人をつなぐ--という象徴的なシーンが、とても美しい。
この映画、ラストシーン、キャサリン・ヘプバーンが列車の窓から手をふるシーンがあまりにも有名だけれど、私は、運河のくちなしを拾おうとして拾えないシーンが好きだ。ほかのシーンは舞台でも見ることができるが、水に映った二人の肉体の中をくちなしが流れていくというのはカメラで見せることしかできない。映画でしか見ることができない。台詞はキャサリン・ヘプバーンが男の名前を呼ぶだけである。それも、とても映画的だ。影像がすべてであり、台詞(意味のあることば)は必要ない。
(午前十時の映画祭、天神東宝2、2014年09月19日)
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