詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)

2014-09-21 00:55:23 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)2014年09月21日(日曜日)

 「花束」は「サロメ」「カルデアのイメージ」に通い合うものをもっている。ことばに不機嫌な刺がある。

チョウセンアサガオ、ニガヨモギ、インゲン、
トリカブト、ドクゼリ、ドクニンジン--
すべて苦く毒を含めるを贈りて
その薬 そのおそろしき花もて
大き花束を作りて
かがやける祭壇に捧げん--
おそろしくもなつかしき情念を祭る
緑の毒石マラカイトの荘厳なる祭壇よ。

 毒が何度も出てくる。それは詩のなかにあることばのように「恐ろしい」ものである。しかしカヴァフィスは同時に「なつかしき」とも書いている。毒がなつかしい。単なる毒ではなく「情念」の毒がなつかしい。

おそろしくもなつかしき情念を祭る

 なぜおそろしいものが同時に「なつかしい」のか。
 この説明はむずかしい。たぶん、だれもが知っているがゆえにむずかしい。他人に対する怒り、怒りの暴走の果てに「殺したい」という思いがある。それはだれもが体験することなのかもしれない。
 カヴァフィスは、こういう「闇のこころ」(情念)をいちいち説明せず、ことばをぱっとほうりだす。わかる人がわかればいい、わかっている仲間うちに向けてことばを動かす。
 しかし人は「思い(情念)」は体験するが、実際には「殺す」というところまではゆかない。

 「情念」には「嘘」がない。「情念」は「純粋な主観」だ。「情念」は「ほんとう」だ。「ほんとう」だから、なつかしい。そして、その「情念」をそのまま「行動」に移しかえることは、ときに禁じられている。
 「禁止」はもしかしたら救いかもしれない。「禁止」がなかったら、殺してしまうだろう。そういう意味では「情念」は「毒」より恐ろしい。毒は動かない。けれど「情念」は動いていく。
 この不気味なものと祭壇との組み合わせがおもしろい。不気味なものによって祭壇は「かがやける」ものになるし、「荘厳」なものにもなる。何かを「禁止」することが「神」の仕事であり、その「禁止」の前で苦悩するのが人間の仕事なのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
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代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。

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