詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(159)(未刊6)

2014-08-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(159)(未刊6)   

 「一九〇三年十二月」は「一九〇三年九月」の続編である。カヴァフィスは自分自身の体験をそのまま詩にしていることがわかる。

もしもきみへの愛を語れぬとしても、
よしんばきみの黒髪を、くちびるを、眼をうたえぬとしても、
こころに秘めたきみの面影、
脳裡に消えない声のひびき、
九月の日々は私の夢に現れて、
私のことばの、私の書くものの 形となり肉となっているよ、
何を論じても、どんな考えを語ろうとも。

 「あのひと」は「きみ」にかわっている。何らかの接触があったのだろう。
 しかし、ここでもカヴァフィスは「対象」を描いていない。書くと「きみ」がだれてあるか、カヴァフィスの知人に知られてしまう。それを避けているのかもしれない。カヴァフィスの嗜好が知られる、ということを恐れているのかもしれない。
 しかし、その「面影」と「声のひびき」はカヴァフィスの詩に反映されている、と言う。ことばの「肉」になっていると言う。
 この「声のひびき」という一語がカヴァフィスの詩のポイントかもしれない。「きみ」の言った「ことばの意味(内容)」というよりも「声のひびき」がカヴァフィスのことばに反映する。
 ひとは、ある誰かにひかれるとき、さまざまなひかれ方をする。人格や思想にひかれることもあれば、容貌にひかれることもある。あるいはセックスの官能にひかれるときもある。
 カヴァフィスは「きみ」の容姿にもひきつつけられているが、「声のひびき」にも魅了されている。それは「能裡に消えない」。
 「面影」の方は「こころに秘めた」という表現をつかっている。カヴァフィス自身が「ひめた」のである。能動的に動いている。けれど、「声のひびき」はカヴァフィスが能動的に動いて自分のなかに閉じ込めているのではない。それは耳から入ってきて、脳裡に居すわっている。そして、それはカヴァフィスの肉体のなかを動き回っている。そして、カヴァフィスの口調になっているのかもしれない。

 この詩は、しかし、とても弱い。カヴァフィスの「声」にしては「主観」という感じがあまり強くない。それはたぶん「脳裡」ということばと関係している。「きみ」の「声のひびき」は「脳裡」から消えないけれど、影響は「脳裡」にとどまっている。その「声のひびき」が手足や先まで支配し、「脳」が手足(肉体)に裏切られるところまで行ってしまうのが恋愛の極致だろう。
 「声のひびき」が「脳裡」にとどまっているから、この詩には「意味」はあるけれど、愉悦がない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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