詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」

2016-07-05 08:47:38 | 詩(雑誌・同人誌)
三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」(「イリプスⅡ」19、2016年07月01日)

 三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」も、「どんな表現も感覚の歓びを伴わなくては詩にならない。」(北川透)ということを証明している。というか、三井の詩を読むと、「意味」ではなく、ことばを発するときの「感覚の歓び」が動いている。(私の言い方で言い直せば、「ことばの肉体」が動いている。ことばが「意味」に縛られず「自発的」に動いている。)
 タイトルの「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」からして、もう、そこに「歓び」がある。「オフィーリア、オフィーリア、」は「二度」。「三度」ではない。しかし、「三度唱えよ」ということばがつづくとき、「ことば」の内側では「オフィーリア」が「三度」動いている。書かれているのは「二度」なのに。「オフィーリア、と三度唱えよ」では、「音」が聞こえない。「オフィーリア、オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」では「三度」が聞こえなくなる。そこに「三度」と書かれているのに、それが「三度」に聞こえない。うるさいことばになってしまう。一回省略されている反復(リズム)だからこそ、そこに「三度」が自発的に動いていく。ことばの肉体が歓んで動いていくのだ。「隙間」というか、「二度」なのに「三度」と「飛躍」していくところに、思わず「ことばの肉体」が誘い出されて動き出す秘密がある。
 このタイトルを受けて、書き出しも楽しい。

構成された言葉の隙間に水が満ち
オフィーリア あなたは
花々の下に暗い根茎のはびこりを許すのだ
抱きしめられるとき
それも精神への暴力だと知りながら
オフィーリア
束縛を求める悲しさ 寒さ

 「構成された」という抽象的なことば。「花々の下に暗い根茎」という具体的なことば。具体的とは言っても、「花々の下」は土のなかなので「暗い根茎」が直接見えるわけではないから、それも抽象的と言ってもいいかもしれない。しかし、花々が根を持っていることは、知っていること(花を抜いたときに見たことがある)ので具体的とも言える。「構成された」は逆に抽象的ではあるけれど「言葉」と「言葉」のつながりは耳(音)や目(文字)で確かめることができるので具体的であるとも言える。
 抽象と具体が、ここでは交錯して動いている。
 その「交錯」した感じ、抽象と具象が入れ替わる感じ、どちらがどちらとも言えない感じ、両方の感じが……。

抱きしめられるとき
それも精神への暴力だと知りながら

 この「抱きしめる」(抱擁/愛)と「精神への暴力」(愛ではないもの)という「交錯」を輝かせる。しかも、それは「知りながら」と書かれているように、「知っている」ことなのだ。「知っている」とは「肉体」で「おぼえている」ということ、「肉体」で「思い出すことができる」ということなのだが、そういうことを書きはじめると、私がいつも書いていることの繰り返しになってしまうので、今回は省略。
 それが「暴力」と「知りながら」、それを「求める悲しさ 寒さ」。このとき「暴力」は「束縛」と言い直されているのだが、言い直すことで「暴力」が「肉体的」なのものであるのに、「悲しさ」という「感情」に、さらには「寒さ」という「感覚」に変化していく。
 ここにも具象と抽象の交錯があり、それが精神を活性化させる。この活性化を「歓び」という。「ことばの肉体の自発的な動き」(自律的な変化)があり、その動き/変化が、ことばを「語る」ときの「歓び」そのもとなって伝わってくる。
 「花々の根がはびこる」を「はびこりを許すのだ」と、「主語」を「花々」から「オフィーリア」へと変化させる(文章的には最初から「主語」は「オフィーリア」だけれど……)ときの、「ねじれ」のようなものにも「官能」がある。次に書かれる「暴力」に「束縛」されることを「許し」、さらにそれを「求める」という「矛盾」が「歓び」となって輝く。
 こういう不思議な「錯乱」を「オフィーリア」ということばの繰り返しが支えるというか、その繰り返しのリズムが「錯乱」のスピードを後押しする。

 でも、これを

パズルのように一言を入れ替えると
「愛」が愛として成り立つのよ
と あなたは言った
透明な
早春の光の中で

 とつないで行くと、うーん、「歓び」が消えてしまう。最初に書かれていた抽象と具象の拮抗、肉体と精神の衝突のようなリズムがなくなる。
 書き出しはあんなにおもしろかったのに、とだんだん残念になる。

オフィーリア、
オフィーリア、
オフィーリア、
三度唱えて肌を重ねて
素早くあなたに入るとき
これは葡萄のお酒よ花の蜜よ
と囁いた

 あ、ほんとうに「三度」、「オフィーリア」を声にしてしまっては、もう「飛躍」はない。「美しさ」を装って「比喩」が逆に「卑俗」そのものになる。

紅の小箱
三井 喬子
思潮社

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