中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997年08月08日発行)
中井久夫『アリアドネからの糸』のなかに「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」というエッセイがある。これは、とてもこわい文章である。最初に出会ったとき、こわくなって、最後まで読むことができなかった。中井がつかっていることばを借りていえば「悪夢」のような文章である。
「悪夢」は、こうつかわれている。
もし、ロールシャッハ・カードが別々の十枚ではなく、ブラウン管の画面にまず第一カードが映り、この第一カードが変形して第二カードになり、第二カードが変形して第三カードになり、以下同様に第十カードまでつづくならば、これは想像するだに怖ろしい。これこそ端的な悪夢である。われわれはなすすべもなく、ただおののいて眺めるか、あるいは逃げ出すしかない。(354、355ページ)
私は十枚のカードを「ブラウン管の画面」ではなく、中井の文章のなかで、次々に変形していくものとして読んだのである。十枚が別々のものではなく、一続きの連続した「流れ」としてあらわれ、その「流れ」のなかにのみこまれていく。
そして、それは「映像」ではなく、「誤読」を許さない完璧な「論理」なのである。「論理」が私をのみこんでいく。これから書くことを中井は否定するかもしれないが、「論理」というのは「結論」という枠のなかにひとを閉じ込める。この閉塞感が、私とにっての「悪夢=恐怖」なのである。
しかも、その「論理」が「中井の論理」というよりも、「ロールシャッハの論理」に感じられてしまう。中井は、いわゆる「チューニング・イン」状態で、カードの持っている美学とそれぞれの「意味」を語るのだが、それがほんとうにロールシャッハの「意図」そのものとして浮かび上がってくる。私は、ロールシャッハのカードを見たことはないし(本に収録されているのはモノクロの図版)、ロールシャッハの書いたものを読んだこともないから、私が感じる「ロールシャッハの意図(論理)」というのは「空想」でしかないのだが、ロールシャッハはそう考えたに違いないと感じてしまう。私は二重の「悪夢」のなかに取り込まれてしまう。
この感じは、訳詩について書いた文章、特に「「若きパルク」および『魅惑』の秘められた構造の若干について」を読んでも感じられる。それは中井の分析なのだが、中井が分析しているというよりもヴァレリー自身が語っているような揺るぎない「論理」なのである。中井がヴャレリーに「チューニング・イン」してしまっている。
たぶん「若くパルク」「魅惑」の中井久夫訳を「象形文字」に掲載した前後だと思うのだが、私は、中井久夫に会いたくて手紙を書いたことがある。そのとき、中井は「私は職業柄、どうしても会った人を分析的に見てしまうので、会わない方がいいでしょう」と断られた。そのことばは、「真実」であると同時に、今から思うと「親切」でもあったのだとわかる。
「チューニング・イン」というのは、一方においてだけ起きることではなく、二人の間で起きることである。だから「生身」の人間が相手のときは、たぶん、危険なのだ。中井にとって「危険」というよりも、私にとっての「危険」の方が大きいだろう。私は、そのころ、中井の訳詩(そのことばのリズム)に陶酔していたから、「チューニング・イン」を起こした後では、もう詩が書けなくなっていたかもしれない。
それから何年かして、『リッツォス詩選集』を出版するとき、編集者をまじえて三人で会ったことがあるが、これは三人だからよかったのだと思う。「ニューニング・イン」が緩和される。
中井の文章は、あるいはことばと言った方がいいのかもしれないが、それは「チューニング・イン」を経てきて、表面化される。あるテーマについて書く。そのときそのテーマとともに存在する人間がいる。その人間に「チューニング・イン」して、そのリズム、論理でことばが動いている。だから、どの世界も「中井個人」の超えて、「別の世界」が二重写しになってダイナミックに動く。奥が深いとは、こういうことを言う。
それが詩の場合は、わあ、おもしろい、という感嘆になるが、ロールシャッハ・カードの分析では、何か、私自身が「強制的」にテストされているとさえ感じてしまうのである。
奇妙な言い方だが、中井が死んでしまったいまだからこそ、安心して読むことができる。「チューニング・イン」が、現実ではなく、ことばのなかだけで起きるからだ。中井の訳詩については、私はこれまでいろいろ書いてきたが、エッセイについて書いてこなかった。それは、どこかでこの「チューニング・イン」の力を恐れていたからなのだろう。
訳詩を読んで、そのことばの肉体感染したとしても、私はカヴァフィスに、あるいはリッツッスに「チューニング・イン」したと言い逃れることができる。
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