AIが人間にかわって労働するとき、どんな影響が出るか。「働く」ということの問題には、どうしても個人的体験、個人的環境が影響してくるから、見落としてしまうことも多い。
きのう書いた文章について知人と話していたとき、いま低賃金で働いている障害者らへの影響はどうなるか、ということが話題になった。私が働いていた職場、いまときどき働いている職場では障害者の同僚と接する機会がなかったので気づかなかったが、知人が指摘したように、AIロボットの進出によって真っ先に影響を受けるのは、彼らだろう。
たとえばホテルのベッドメーキング、トイレの掃除、あるいはレストランなどでの給仕。(給仕のことは、すでにきのうファミリーレストランについて書いたときに触れた。)恵まれているとは言えない賃金で働いている人たちこそ、真っ先に「労働」を奪われるだろう。(ベッドメーキングやトイレ掃除のAIロボットは、いまの技術からすればすぐにでもつくることができるだろう。)そしてそれは、単に「賃金」を受け取ることができない(金を稼げない)ということを超える問題を含んでいる。
障害者がさまざまな場所で働いているのは、金を稼ぐということだけではなく、「社会参加」という意味を持っている。働くことをとおして社会とつながる。そして、そういうひとたちの社会参加を促すためにもバリアフリーが推進されてきたはずだ。社会には、いろいろなひとがいる。様々なひとと共存できる社会が理想の社会であるはずだ。その「共存社会」の広がりを拒むもの、後退させるものとしてAIロボットは動き始めるかもしれない。
いまでも政治家の一部には「生産性優先」と考えるひとがいる。AI導入も「生産性優先」(合理化優先)の一環かもしれない。それを推進するものかもしれない。労働(特に単純な肉体労働)からの解放は、一見、人間に自由な時間を与えるように見える。しかし、それは社会に参加し、ともに生きる機会を奪うことになるかもしれない。
自分が生きているだけではなく、いっしょにいろいろなひとと生きているという感覚(意識)を奪うことになるかもしれない。そして、ここから「新しい差別」がはじまるかもしれない。「生産性向上」に関与できない人間は必要がない(邪魔だ)という意見が出てくるかもしれない。実際、いまでも何人かの政治家は、そういう発言をしている。それに拍車がかかるだろう。
影響は、外国人にも及ぶだろう。いま多くのコンビニエンスストアでは外国人が働いている。レジが無人化すれば、彼らは仕事を失う。懸命に学んだ日本語を活用し、日本の社会で生きている彼らは、しだいしだいに日本の社会から締め出されていく。低賃金で雇い、AIの導入(AIとまでいかずとも、ネットワーク網の構築)で、そういうひとたちを解雇する。より「合理化」(生産性の向上)のための、「使い捨て」である。
企業が(資本家が)、そうした「使い捨て」を押し進めるとき、その感覚は市民のあいだにも広がっていくだろう。
一方で、多様な文化の共存といいながら、他方で多様性を切り捨てるような動きを推進する。それはAIロボットによってさらに推進されるだろう。
何のために働くのか。もちろん金を稼ぎ、その金をもとに生活するためである。金がなければ何もできないのが現実である。しかし、それ以外に、働くことをとおして社会の仕組みを知る。いろいろなひとと出合い、いっしょに生きるためにはどうすべきかを考える。その視点が欠落しては、働いたことにならないのではないか。
「働く」という行動を、「社会参加」という視点からとらえ直し続けることが大事だと思う。「社会参加」の可能性を、どうやって広げていくか。この視点を踏み外すと、とても生きにくい世界になると思う。