久方ぶりの、西尾維新の「新作」。
ネタバレにはならないと思うけど、それっぽいことは書くだろうから、読む人は一応その心づもりで。
とはいえ、極めて「私小説」っぽい構成で、これを新作と読んでいいかは微妙なところ。
基本的には、売れっ子作家である語り手の「僕」が、彼が作家となるきっかけとなった10年前のとある「事件」について語る構成。
プライバシー保護とか、表現規制とか、いろいろと理屈をつけて「僕」の名を伏せたまま物語が続くため、読み手としては、どうしてもこの「僕」を西尾維新本人と重ねる形で読み進めてしまう。
というのも、作家の「僕」の特徴、たとえば比類のない速書き作家であるとか、西尾維新を連想させる形容は多いため、これを西尾の私小説として読むように誘導する仕掛けはそこら中に見られる。
とはいえ、一応最後の最後で、作家の名前が示されて、一応、僕≠西尾維新、というエクスキューズが示される。
もっとも、西尾維新という名はペンネームでしかないから、僕の名が西尾維新でないからといって、僕が西尾維新の「中の人」でないことまでは担保されない。
ということで、どこまでいっても、これは西尾維新の私小説として誤読されるのだろう。
その点が、西尾らしいズルさといえる。
そのような私小説として読むと、物語の最終段階で示された「僕」の作家としての動機は、道を外れた人間でも幸せに生きることができる物語を記すことにあるという。
そして、その意味で、「良き大人」であることを強いる模範的な書き物、すなわち「小説」ではない、ということになる。
実際、道を外れた人たちが紆余曲折を経て、彼らなりの幸せを得る、というのは西尾維新の物語に通底する。それを、どうやら作家自身が吐露したとも取れる構成。
道を外れる、というのは「異化」の初歩だから、そのような登場人物を持ちだした時点で、必然的に物語らしきものは勝手に動き出してしまう。
ともあれ、この本の内容について、何度か「僕」が強調しているように、西尾の作品は、物語ですらなく、「事件」でとどまることが多い。そして、その「外れた道」からは結局戻らないままお話は終わる。
基本的にはオープンエンド。
というのも、道を外れた人が幸福になるそのあり方は、必ずしも世間的に広く認められている「大団円」的な、規範的な「幸せ」ではないからだ。つまり、登場人物が彼/彼女の内面で「どう幸せなのか」は、語り手の想像を超えているから。だから、それぞれの「幸せ」を読み手が勝手に想像するしかない。
ということで、西尾作品の読後感が微妙にずれるのは、その「それぞれの幸せ」が、読み手が想像できるエリア内にあるかどうかで変わってくるのだろうな、と感じた次第。
なんとなく、今まで西尾維新を読んで、腑に落ちる時に落ちない時にきれいに別れてしまう理由がわかったような気がする。
要するに、物語的な結論は常に想定されていない、ということ。
そして、西尾作品を出来ればそのようなものとして読んで欲しい、というのが、この『少女不十分』で伝えたかったことのように思えた。
で、読後感は、新作と聞いて期待したけど、あまり面白くはなかった、ってところ。というか、やっぱり西尾維新、スランプにあるのだろうか、と。
『少女不十分』では、結局、正しい西尾維新作品の読み方を作者自身が指示したように見えるし。
化物語の第二シリーズでは、ファン受けの良い展開、というか、自分で二次創作してるような話を書いているし。
化物語以外でも、病院坂黒猫や、赤い請負人の物語をこれまた二次創作的に書いているし。
書きたいものがなくなってしまったのではないか、とちょっと心配になった。
ということで、また何か気づいたら書くだろうけど、とりあえずはこんな感じ。
ネタバレにはならないと思うけど、それっぽいことは書くだろうから、読む人は一応その心づもりで。
とはいえ、極めて「私小説」っぽい構成で、これを新作と読んでいいかは微妙なところ。
基本的には、売れっ子作家である語り手の「僕」が、彼が作家となるきっかけとなった10年前のとある「事件」について語る構成。
プライバシー保護とか、表現規制とか、いろいろと理屈をつけて「僕」の名を伏せたまま物語が続くため、読み手としては、どうしてもこの「僕」を西尾維新本人と重ねる形で読み進めてしまう。
というのも、作家の「僕」の特徴、たとえば比類のない速書き作家であるとか、西尾維新を連想させる形容は多いため、これを西尾の私小説として読むように誘導する仕掛けはそこら中に見られる。
とはいえ、一応最後の最後で、作家の名前が示されて、一応、僕≠西尾維新、というエクスキューズが示される。
もっとも、西尾維新という名はペンネームでしかないから、僕の名が西尾維新でないからといって、僕が西尾維新の「中の人」でないことまでは担保されない。
ということで、どこまでいっても、これは西尾維新の私小説として誤読されるのだろう。
その点が、西尾らしいズルさといえる。
そのような私小説として読むと、物語の最終段階で示された「僕」の作家としての動機は、道を外れた人間でも幸せに生きることができる物語を記すことにあるという。
そして、その意味で、「良き大人」であることを強いる模範的な書き物、すなわち「小説」ではない、ということになる。
実際、道を外れた人たちが紆余曲折を経て、彼らなりの幸せを得る、というのは西尾維新の物語に通底する。それを、どうやら作家自身が吐露したとも取れる構成。
道を外れる、というのは「異化」の初歩だから、そのような登場人物を持ちだした時点で、必然的に物語らしきものは勝手に動き出してしまう。
ともあれ、この本の内容について、何度か「僕」が強調しているように、西尾の作品は、物語ですらなく、「事件」でとどまることが多い。そして、その「外れた道」からは結局戻らないままお話は終わる。
基本的にはオープンエンド。
というのも、道を外れた人が幸福になるそのあり方は、必ずしも世間的に広く認められている「大団円」的な、規範的な「幸せ」ではないからだ。つまり、登場人物が彼/彼女の内面で「どう幸せなのか」は、語り手の想像を超えているから。だから、それぞれの「幸せ」を読み手が勝手に想像するしかない。
ということで、西尾作品の読後感が微妙にずれるのは、その「それぞれの幸せ」が、読み手が想像できるエリア内にあるかどうかで変わってくるのだろうな、と感じた次第。
なんとなく、今まで西尾維新を読んで、腑に落ちる時に落ちない時にきれいに別れてしまう理由がわかったような気がする。
要するに、物語的な結論は常に想定されていない、ということ。
そして、西尾作品を出来ればそのようなものとして読んで欲しい、というのが、この『少女不十分』で伝えたかったことのように思えた。
で、読後感は、新作と聞いて期待したけど、あまり面白くはなかった、ってところ。というか、やっぱり西尾維新、スランプにあるのだろうか、と。
『少女不十分』では、結局、正しい西尾維新作品の読み方を作者自身が指示したように見えるし。
化物語の第二シリーズでは、ファン受けの良い展開、というか、自分で二次創作してるような話を書いているし。
化物語以外でも、病院坂黒猫や、赤い請負人の物語をこれまた二次創作的に書いているし。
書きたいものがなくなってしまったのではないか、とちょっと心配になった。
ということで、また何か気づいたら書くだろうけど、とりあえずはこんな感じ。