(感想1からの続き)
とりあえず2期が終わって、さすがに3期までは時間があるだろうと思ったので、ためしに、2期の終わりからの続きとして、原作の13巻を読んでみた。
で、結構、驚いたのは、原作のほうが、変態の描写がマイルドであったこと。
いや、もちろん、ルーデウスは本質的に変態なんだけど、その変態ぶりが、まぁ、こういうどうしようもない奴っているよね、というくらいに抑えられていてビックリ。
だいぶ、印象が違う。
それは裏返すと、アニメ制作陣は、相当ルーデウスの「変態性」に執着していて、好きあらばその変態性を際立たせようとしていることになる。
で、その「変態性」を強調するアニメの仕掛けは色々とあるのだけど、やっぱり、一番大きいのは、「前世の男」にCV杉田を起用して、ルーデウスのCV内山と発言に明確な区別をつけたことに思えた。
なぜなら、原作を読む限り、ルーデウスが「前世の男」の経験から自問自答しているところも、普通にルーデウスの声で考えているように読めるから。
具体的には、シルフィやロキシーなど作中の登場人物と対話している場面と、そうした対話の間で、語り手であるルーデウスが、地の文で自分の考えを示すところがあるのだけど、そこで、対話と地の文のルーデウスの声に違いがあると思わせるような「区別」はなにもない。
つまり、ルーデウスと前世の男は、原作では、普通に一体化している。
『転スラ』のリムルみたいな感じ。
リムルが転生前の記憶に頼って思考するときにわざわざ転生前の三上悟の声で施工したりしてないでしょ? あれに近い。
だから、『無職転生』の原作では、ルーデウスの声=人格のまま、前世の男のときの経験を反芻しているように読めるから、無用な気持ち悪さを感じることはないし、感想1にも書いたように、前世の男がルーデウスというアバターを操作している、という感じもしない。
むしろ、前世の男がルーデウスとして経験し成長していることが素直に描写さている感じ。
対して、アニメの場合は、前世の男が杉田ボイスで執拗に存在を主張するので、ルーデウスという人格が借り物に過ぎず、前世の男の本質は変わらないように思えてしまう。
これは、やっぱり失敗だったと思うんだよね。
だって、ルーデウスの変態性が、前世の男から引き継いだ悪癖というやんわりとしたものではなく、前世の男を形成する核、というか、ルーデウスの本質、のように思えてしまうから。
この差は大きい。
つまり、ルーデウスは成長しているようで、実は成長していない、というか、成長を拒んでいるように、杉田ボイスが介在することで感じてしまう。
だって、第二の自分であるルーデウスを、超越的視点から眺める前世の男が強固に存在し続けているように思えるから。
ほんと、リムルのように、前世に触れるところもCV内山で押し通せば、ルーデウスの変態性も随分和らいだろうに。
でも、どうやら、アニメ制作陣は、「変態性」こそが『無職転生』の本質であると思ってしまったようで、執拗に下着とか性交とか、一般に下ネタと呼ばれるものの描写に執着してしまった。
しかも、その描写を、比較的作画の良いリアリスティックなファンタジーの中に入れてしまったから、嫌でも変態性の部分が際立つようになってしまった。
だって、変態なところも、執拗に描きこむのだもの。
要するに、とてもバランスの悪いものになった。
これが、それこそ「スマフォ太郎」のような、よくあるなろうのダメな作画でやっていたら、もっとマイルドな、ペラペラな変態性の描写になって、はい、ここは笑うところです!くらいの感じで、流すことができたのだろうけど。
ある意味、『チェンソーマン』がアニメで大コケしたのと似たような理由だったということ。
制作陣の原作への愛が生み出した強調点が、普通の視聴者の嗜好や期待とずれてしまった。
そういう感じかな。
ちなみに、原作そのものは、上述のように、それほど記述が不快なわけではないので、ぼちぼち読んでみようかな、と思っている。
そういう意味では、3期以降は、だいぶまともな冒険ファンタジーの要素も増えてきそうなので、もしかしたら、2期までよりもマシなものになるかもしれない。
最初から原作の全部をアニメ化するという触れ込みだったから、後半の冒険ファンタジーから逆算して、ああいう無駄に作画が悪くないものとしてスタートさせたのかもしれないけれど、その結果、前世の男がやたらと前世の自分を悔いる場面とか、とはいえ前世から引き継ぐ変態趣味のところまで、無駄なリアリズムで描写されることになって、一般死傷者の忌避感を喚起した、ってことなんだろうな。
難しいねぇ、原作ありきの作品のアニメ化はw
とりあえず2期が終わって、さすがに3期までは時間があるだろうと思ったので、ためしに、2期の終わりからの続きとして、原作の13巻を読んでみた。
で、結構、驚いたのは、原作のほうが、変態の描写がマイルドであったこと。
いや、もちろん、ルーデウスは本質的に変態なんだけど、その変態ぶりが、まぁ、こういうどうしようもない奴っているよね、というくらいに抑えられていてビックリ。
だいぶ、印象が違う。
それは裏返すと、アニメ制作陣は、相当ルーデウスの「変態性」に執着していて、好きあらばその変態性を際立たせようとしていることになる。
で、その「変態性」を強調するアニメの仕掛けは色々とあるのだけど、やっぱり、一番大きいのは、「前世の男」にCV杉田を起用して、ルーデウスのCV内山と発言に明確な区別をつけたことに思えた。
なぜなら、原作を読む限り、ルーデウスが「前世の男」の経験から自問自答しているところも、普通にルーデウスの声で考えているように読めるから。
具体的には、シルフィやロキシーなど作中の登場人物と対話している場面と、そうした対話の間で、語り手であるルーデウスが、地の文で自分の考えを示すところがあるのだけど、そこで、対話と地の文のルーデウスの声に違いがあると思わせるような「区別」はなにもない。
つまり、ルーデウスと前世の男は、原作では、普通に一体化している。
『転スラ』のリムルみたいな感じ。
リムルが転生前の記憶に頼って思考するときにわざわざ転生前の三上悟の声で施工したりしてないでしょ? あれに近い。
だから、『無職転生』の原作では、ルーデウスの声=人格のまま、前世の男のときの経験を反芻しているように読めるから、無用な気持ち悪さを感じることはないし、感想1にも書いたように、前世の男がルーデウスというアバターを操作している、という感じもしない。
むしろ、前世の男がルーデウスとして経験し成長していることが素直に描写さている感じ。
対して、アニメの場合は、前世の男が杉田ボイスで執拗に存在を主張するので、ルーデウスという人格が借り物に過ぎず、前世の男の本質は変わらないように思えてしまう。
これは、やっぱり失敗だったと思うんだよね。
だって、ルーデウスの変態性が、前世の男から引き継いだ悪癖というやんわりとしたものではなく、前世の男を形成する核、というか、ルーデウスの本質、のように思えてしまうから。
この差は大きい。
つまり、ルーデウスは成長しているようで、実は成長していない、というか、成長を拒んでいるように、杉田ボイスが介在することで感じてしまう。
だって、第二の自分であるルーデウスを、超越的視点から眺める前世の男が強固に存在し続けているように思えるから。
ほんと、リムルのように、前世に触れるところもCV内山で押し通せば、ルーデウスの変態性も随分和らいだろうに。
でも、どうやら、アニメ制作陣は、「変態性」こそが『無職転生』の本質であると思ってしまったようで、執拗に下着とか性交とか、一般に下ネタと呼ばれるものの描写に執着してしまった。
しかも、その描写を、比較的作画の良いリアリスティックなファンタジーの中に入れてしまったから、嫌でも変態性の部分が際立つようになってしまった。
だって、変態なところも、執拗に描きこむのだもの。
要するに、とてもバランスの悪いものになった。
これが、それこそ「スマフォ太郎」のような、よくあるなろうのダメな作画でやっていたら、もっとマイルドな、ペラペラな変態性の描写になって、はい、ここは笑うところです!くらいの感じで、流すことができたのだろうけど。
ある意味、『チェンソーマン』がアニメで大コケしたのと似たような理由だったということ。
制作陣の原作への愛が生み出した強調点が、普通の視聴者の嗜好や期待とずれてしまった。
そういう感じかな。
ちなみに、原作そのものは、上述のように、それほど記述が不快なわけではないので、ぼちぼち読んでみようかな、と思っている。
そういう意味では、3期以降は、だいぶまともな冒険ファンタジーの要素も増えてきそうなので、もしかしたら、2期までよりもマシなものになるかもしれない。
最初から原作の全部をアニメ化するという触れ込みだったから、後半の冒険ファンタジーから逆算して、ああいう無駄に作画が悪くないものとしてスタートさせたのかもしれないけれど、その結果、前世の男がやたらと前世の自分を悔いる場面とか、とはいえ前世から引き継ぐ変態趣味のところまで、無駄なリアリズムで描写されることになって、一般死傷者の忌避感を喚起した、ってことなんだろうな。
難しいねぇ、原作ありきの作品のアニメ化はw