BLACK SWAN

白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

蒼穹のファフナー EXODUS 第26話 『竜宮島』 感想

2015-12-30 00:20:01 | ファフナー
綺麗な終わり方だな、というのが第一印象。
もちろん、駆け足だったな、というのはあるけれど、その中でちゃんと濃淡を付けて終わらせてくれたから十分すぎるほど満足できた。

素晴らしかった。

いまどき、シリーズ全体で、26話全部を通じてようやく理解できる作品が送り出されたことに驚くし、素直に称賛に値する作品だと思う。

見終わって、一番やられたな、と思ったのは、EXODUSというのが、他でもない竜宮島からの脱出だったこと。
すっかりアショーカ組の強行軍こそがエグゾダスだとばかり思っていたから、この終わりには、あーそう来たか、と素直に脱帽した。

これで、竜宮島の人びとは、故郷をなくして他の地域に行くしかない。
で、これはそのまま聖書のユダヤ人の扱いだよね。
いつかカナンの地へ、すなわち、いつか竜宮島に帰るという願いとともに見知らぬ土地に放り出されて生きていく。

この終わりがなかったら、わざわざ真矢を「調停者」として位置づけ成長させようとする描写はいらなかったわけだから、ものすごく納得。

もともとファフナーは、その名からもわかるように北欧神話をベースにした物語であったわけだけど、EXODUSになって旧約聖書的なキリスト教的な世界観が加えられたと思っていたので、この竜宮島の脱出劇(プランデルタ)はとても腑に落ちた。

そうして、島の人達はみな、島に息づいていた「平和」という文化の伝道者として世界に散っていくことになる。それこそユダヤ人のように。
もちろん、反発や差別もされるだろうけど、それを乗り越えるべき運命を島民皆が、織姫(と総士)の犠牲によってすでに背負ってしまっている。

今回も度々繰り返された「祝福」という言葉に見られるように、キリスト教的モチーフは、一期の頃から、特にフェストゥム側で見られたわけだけど、部分的にミール+フェストゥムと人類との共存・共生をも描いたEXODUSでは、聖書的世界観が更に増していた。その決め手が最後のエグゾダスであったことには脱帽。

さらにいえば、最後のアルタイルを封印して海に沈む竜宮島は、イエスの再臨と審判の日を「希望」として待ち望む様子そのもの。だから、EXODUSのプロットはホントに聖書的だったんだなと思う。

それに加えて、アショーカの登場で、仏教的な輪廻転生的死生観も強調された。

とにかく、その世界観の構築に脱帽。
神話的モチーフを十全に扱っていた。


そのうえで、次に納得したのが、一騎たちの「人生」のこと。
これは前回も記したけど、彼らが成人式を迎えて「大人」になった、という描写がしっかりされていたことにも呼応している。

つまり、EXODUSは、一騎の同期が成人することで、社会の責任をきちんと引き受ける存在になる、そのための成長物語だったんだな、というのがよくわかった。

なにより、一騎が物語の最初からずっと気にかけてきた「いのちの使い方」を見つけ、七夕の短冊に記した「生きる」という願いがかなったのだから。

(だから、EXODUSは、人びとが「生きる」ことをきちんと選択できることの意義を問う物語でもあった、ということ。)

一騎の同級生たちが大人になったというのは、端的に言えば、

剣司と咲良がきちんと「結婚」したこと
真矢が、島の外の世界にでかけ、「調停者」としての運命に気づけたこと
一騎が、永遠の戦士として、存在と無の地平に立つ存在を選択したこと、
総士が、生と死の循環の中に自分の落ち着く先を見つけたこと

それぞれが生きることの意味を見出した。

もちろん、終わってみれば、シリーズ通じて多数の死者も出たわけど、それも冲方らしく、「誉れある死」と「誉れなき死」とに明確に分けられていた。前者は、カノン、広登、暉、オルガ、ウォルター、弓子、ナレイン、エメリー、といった主には竜宮島とアショーカ組。対して、後者はアルゴス小隊の面々とビリー。

ビリーの死、というか殺害については、賛否両論あるようだけど、あれは、やっぱり、自分の頭で考えて選択できない存在は、どれだけ純朴そうでいい奴に見えても、確実にこの世界では悪である、ということで。ビリーの最期が、わざわざ最後にあれだけの尺をとって描かれたという事実が、彼という存在が極悪である、という制作サイドのメッセージなんだろうな。もちろん、理解可能だし、妥当な結果だと思う。

なにせ、あろうことか、これから世界を調停する役割を担う真矢に銃を向けたのだから。であれば、この戦禍の中を生き抜いてきた生粋のゴルゴである溝口さんに撃たれたのは当然の出来事。

つまり、作中で、ビリーは最悪の「否(ノン)」だったわけだよ。
絶対的に否定されるべき存在として最初から最後まで描かれた存在だった、ってことでしょ。
いつまでたっても、自ら判断しようとしない、亡霊のような心の持ち主として。
人がいいだけのキャラとして彼を捉えてはいけないわけで。
彼に比べたら、頭のネジが外れたキースなんてまだ可愛いものだってこと。

このことは、書き始めたら長くなりそうなので、またの機会に。
というか、他にも書きたいことは山のようにあるのだけど、これくらいで。

そうそう、どうも「尺が足りない」とか「最後が雑」という人たちもいるみたいだけど、もともと尺の制約の中で作っているわけだから、前者の非難は実は非難になっていなくて、その尺の制約の中でこのような表現が選択されたのは何故なのか?とまずは自問してみたほうがいいと思う。で、後者の「雑」というのは、そう見えるんだったら、それは圧倒的に作品を見るという経験が足りてないないから、映画とか小説とかもう少し読んだらどう?、としか言えないなぁ。

あと、「描写が少ないから感情移入ができない」という意見もあるようだけど、ファフナーは、上でも書いたように、もともとは北欧神話とか聖書などの神話や叙事詩的なものが素材になっていて、特に叙事詩なんて神によって人間が蹂躙されることなんてしょっちゅうだから、そもそも人間の感情なんて表現されない。

だから、感情移入云々という観点自体が、とてもラノベ的だよね。
でもさ、ファフナーは、キャラ小説ではないからね。
もちろん、それぞれ、気になる登場人物がいて、その人物から物語世界を堪能することは否定しないけど、でも、それはファフナーの世界では劣後する。

特に最後の決戦のところなんて、決戦なんだから理由なく殺害されて当然。
その理不尽さも含めて戦闘だから。
だからこそ、自らの死に意味を持たせることができるかどうか、というのが問われるわけで。

そういう意味では、ミツヒロと対峙した一騎が、互いにルガーランスを刺しながら、ミツヒロを信じると言ったことと、真矢に銃口を向けたビリーが、何を信じればいいかわからないと錯乱していたのは、綺麗な対比になっている。

死者の扱いにしても、広登やカノンは、もう一回最後に現れるかな、と実は期待していたけど、結局、人の世界には戻ってこなかった。だから、あの消失したカノンは、あの形で死を迎えたのだな、と改めて理解できた。

そういう意味では、死の意味や重さを逐一理解しながら描写しているのがやはりファフナーだということ。

あ、やっぱり長くなってきた(苦笑
一度切ろう(苦笑

ともあれ、素晴らしい作品だった。

続編として、十数年後、十分成長した美羽がアルタイルと対話することを主題とするような新章が作られるなら、もちろん期待したいけど、今回の話の直後の状況の話なら特には必要ないかな。きちんと、26話で完結していると思うから。ましてや、キャラ小説的な日常編なんて全くいらない。ファフナーはそういう話じゃないから。

そうだ、真矢が一騎と結ばれなくて可哀想、という声もあるようだけど、それもお門違いというか。この話は一騎と総士の話だし、そもそも恋愛だけが愛情ではない。その点で、一騎と真矢も深く結ばれている。いわゆる、普通の男女の愛は、咲良と剣司のペアが担ってくれたということで納得すればいいと思う。

うーん。やっぱり書きたいことはいくらでもあるな。
でも、とりあえず、一旦ここで締めておこう。

とにかく、素晴らしい作品。
満足!
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新約 とある魔術の禁書目録 ... | トップ | 東京レイヴンズ 第14巻 感想 »

ファフナー」カテゴリの最新記事