お金がなく、しかもケチで、外国語がダメで、体に少し障害があり、年寄りで、そのうえ稀代の方向音痴の私にとって外国旅行はパックツァーでしかありません。そうするとその土地の人たちとの「出会い・ふれあい」はほとんどありません。その数少ない「出会い・ふれ合い」を紹介します。
ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました)
テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。 長くなりそうなので次回へ。
(注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を 一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりま した。