このアドワの戦いは子供たちでもその年代を知っているとはガイドブック”lonely planet”の記述です。
アディスアベバでの最後の昼食はtop hill という見晴らしの良いレストランでした。そのレストランに写真のような掲示がありました。アドワの戦いから帰還した人(長い名前でスペルが見にくい)がこの家を建てたと誇らしげに書かれていました。
このアドワの戦いは子供たちでもその年代を知っているとはガイドブック”lonely planet”の記述です。
アディスアベバでの最後の昼食はtop hill という見晴らしの良いレストランでした。そのレストランに写真のような掲示がありました。アドワの戦いから帰還した人(長い名前でスペルが見にくい)がこの家を建てたと誇らしげに書かれていました。
アクスムの遺跡巡りをしていた時、突然現地ガイドがあの山の向こうが(写真)アドワの古戦場跡ですと、指差しました。私はファラシャの跡地(1月9日)とこのアドワの古戦場跡を見たいと事前に添乗員の安原さんに希望を出していました。しかしアドワについては観光コースからかなり外れていたので無理だということは最初からわかっていました。そこで私は思わず「オー」と叫びました。なぜ私がアドワに行きたかったのかを以下簡単に説明します。
アドワの戦いは1896年エチオピアとイタリア侵略軍の戦いです。この戦いでエチオピアが勝利をしてこれによってイタリア帝国のエチオピア征服の野望が潰えることになりました。このエチオピアの勝利はエチオピア自身にとってはもちろんですが、アフリカにとっても、世界史的に見ても今に至るまで強いインパクトを与えた事件でした。エチオピアにとってヨーロッパの植民地政策からの独立の確保であり、ヨーロッパ諸国にとっては初のアフリカ植民地化政策の失敗でした。これ以後アフリカで唯一ヨーロッパからの侵略を免れ独立を保ち現在に至っている国です。そして他のアフリカ諸国を勇気づけ1960年代のアフリカ諸国の独立につながります。
さてここまでは私も知っていたことで多くの人の常識でもあるでしょう。日本語の文献にも書かれています。ところが私が知っている日本語の文献にもない話がエチオピアの高校歴史教科書(次回紹介)にありました。
「アドワの勝利の影響」と題する個所で、南アフリカでは”Ethiopianism”(エチオピア主義)として知られる“religious separatist”(宗教分離主義)に火がついたと書かれていました。すなわちアフリカではヨーロッパ諸国の教会からの独立志向が強まったということです。そして教会は反植民地闘争の拠点を形成することになります。またこれはエチオピア正教会の総主教が今までエジプトのコプト教会からきていたものを自前で選出するようになったことも関係しているようです。なおこの自前の総主教の運命については後日紹介の予定です。