この写真の向こうにエ(イ)バドンのお墓があるのですが、標示板の説明から読み取ることができるように男子禁制なので写真は撮れませんでした。
「三島村誌」(P123~124)には以下のような記述があります。「昭和9年11月、東京の教育者であった***永原鉦作氏は、***この大庭どんの墓の下を掘った。その時、石斧**の破片が出た。***縄文・弥生期**のものと思うが、中には鎌倉期の三郎ゆかりのものもあったかもしれない」
この写真の向こうにエ(イ)バドンのお墓があるのですが、標示板の説明から読み取ることができるように男子禁制なので写真は撮れませんでした。
「三島村誌」(P123~124)には以下のような記述があります。「昭和9年11月、東京の教育者であった***永原鉦作氏は、***この大庭どんの墓の下を掘った。その時、石斧**の破片が出た。***縄文・弥生期**のものと思うが、中には鎌倉期の三郎ゆかりのものもあったかもしれない」
場所は6月17日の地図で確認してください。
写真の標示板の説明に「三島村誌(」p122)により二つほど付け加えておきます。「エバドン」は大場三郎を「大場ドン」と読んでいたのが訛ってものです。なおこの標示板には「エバドン」と表記されていますが、三島村のホウムペイジと「三島村誌」では「イバドン」になっています。
大場三郎家政は通称で本名は宇都宮家政です。それは下野国芳賀郡大場邑の領主であったことからそう呼ばれるようになりました。