最初にカタコンベが単なるお墓と書いたとき、以下のようなコメントをいただきました。
納得できません (bosch)
「キリスト教徒はローマのネロ帝による、ローマの大火の責任転嫁やディオクレティアヌス帝によって大迫害を受けました。事実、ペテロ、パウロは殉死しています。カタコンベは本来墓地ではなく、迫害されたキリスト教徒が地下に作った信仰の場所です。303年以降キリスト教の大迫害はなく、その後何度もの会議が重ねられて少しずつ認められていきましたが、キリスト教成立初期の頃はローマの全ての皇帝が寛容だったわけではありません」
わたくしは最近までこのコメントは普通のキリスト教徒(会)の普通のカタコンベ理解だと思っていました。ところがそれは全くわたくしの誤解、勉強不足でした。
いくつかのキリスト教会に電話をしました。鹿児島のカトリック教会の方はカタコンベと迫害は全く関係ないと話していただきました。プロテスタント教会の方も同じでした。「ものみの塔」も同じでホームページを見てくださいとのことで拝見しました。ホームページにはかなり詳しくカタコンベについての記述がありましたが迫害については一言もありませんでした。
日本バプテスト鹿児島基督教会の牧師田淵さん(65歳)の話が面白かったので紹介します。最初に電話をした時の回答は「高等学校の教科書で迫害とカタコンベについてそう習い今もそのように思っています。神学部時代にもそう習ったような気がします」そこで私が「神学部時代の資料があれば教えてください」とお願いしました。その後お便り(写真公開了承済み)をいただきました。神学部時代の教科書には記載がなかったのですね、迫害とカタコンベについての知識は山川出版の「世界史教科書」のみだったのですね。なんだか変な話ですね。
ますますわたくしの疑問は深まるばかりです。なぜ高等学校の歴史教科書が誤った記載をしたのか? 田淵さんの神学時代の本には1957年出版(翻訳本なので原著はそれ以前)というかなり古い本があります。最近になって迫害とカタコンベの関係が否定されてきたという言い訳は甚だ疑問ですね。
なぜこのような間違いが教科書などにあるのか私の年来の疑問です。最近の私の妄想ではどうも「米欧回覧実記」が元凶ではないか。日本にカタコンベが最初に紹介されたのはこの「米欧回覧実記」(4巻p310)の記述からと考えれば腑に落ちるような気がしています。
「米欧回覧実記」について紹介しておきます。「岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。私の偏見?ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。このブログでも幾度か紹介しています。最近出版された。ジャレド・ダイアモンド著「危機と人類」上」(p152)には「欧米への視察旅行に参加した日本人が、外国を観察して借用したものが多い。その中でも非常に重要な一歩になったのが****岩倉使節団である」と紹介されています。
以上で1996年のイタリア旅行で疑問を感じたカタコンベ問題は2020年のバプテスト教会の田淵さんの話で一応終結しました。