彼は前述のようにアヘン戦争の責任を取らされ1842年この地に流されましたが、恵遠城(11月5日参照)を拠点にし、わずか2年の間にトルファン,クチャ、コルラ、アクス、カシュガル、ホータン(9月4日と9月30日の地図を参照)などを訪れ農地の開墾を指揮(4万3000ヘクタール)しました。当時の交通事情などを考えるとすごいエネルギーです。記念館にはその足跡が地図に書かれていました。
写真は彼がその時利用した車?です。
余談ごとですが、この車を引いたのはラクダ、馬、人?。 聞いておけば、と今になって後悔しています。日本では当時乗り物は車でなく駕籠です。紀元前3世紀の秦の始皇帝は馬車です。日本の古代は牛車でした。それが江戸時代になると人間が担ぐ駕籠になったのは歴史の退化ではないか、と「日本史再発見」(板倉聖宣著)は議論を進めています。これ以上はこのブログの趣旨ではないので省略しますが、駕籠と人力車については後日「外国で見た日本」編で紹介する予定です。
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