ガーナのアシャンティ王国と同じような存在がベナンではダホメー王国でした。同じように奴隷交易で国を強大化しましたが、1894年に完全にフランスによって植民地化されました。独立したのは1960年のことでした。現在でも公用語はフランス語です。
そのダホメー王国のアボメイ王宮(世界遺産)を訪ねました。ちょうど王宮ダンスが行われていました。
「世界の冒険家」さんコメント有難うございました。冒険譚を投稿してくれませんか。
「本屋の学生」さんコメント有難うございました。これからも時々見てね。
コロンブスがアメリカで最初に上陸した島ハイチでは2003年ヴードゥー教が固有の民族宗教として認定され、その教会が聖職者の機能と共に、カトリックやプロテスタントと変わらないものとされました。その時の文化相は「ハイチ人の70%がカトリック、30%がプロテスタント、そして全員ヴードゥ教を信仰している」述べています。(上野清士「南のポリティカ」p214)
そのヴードゥー教の祖地はベナンにあります。この地方からの奴隷たちが遠くアメリカまでその信仰を保ってきたのです。最近まで異教徒には立ち入り禁止であったその聖地を訪れました。
多神教なのでこのような樹木も日本と同じように精霊が宿るとされているようです。
教育の選択 中島ヤスミン
イスラエルでの育児の意味
この夏、私たちに第2子が生まれました。名前はクフィール、若獅子と言う意味です。アラブ文化でもヘブライ文化でも獅子はとても凛々しく、勇敢で王者のイメージがあるため、よく男の子の名前に使われます。また聖地エルサレムも昔から、この獅子が町のシンボルになっています。そんな街で生まれた獅子座の男の子という意味でこの名を付けました。
以前、先輩のお母さんから「イスラエルで子どもを育てるということは、18歳になったら軍隊に行くことも覚悟しなければいけないのよ」と言われたことがあります。その時はこの言葉の意味にあまり注目しませんでしたが、今はこの言葉の意味がよく理解できます。
私の夫はエルサレム大学で教鞭をとっていますが、2000年9月に勃発した第2次インティファーダと呼ばれるパレスチナ民族蜂起の時期に軍隊にいた人たちが、今、夫の教え子となっています。彼らが当時の生々しい戦闘の様子を話してくれました。また、今でも兵士の一人がガザで誘拐されたまま4年が経過しています。高校を卒業するまで18年間、普通の子どもたちのように生活していたのが、軍隊で一変する体験をして精神的に傷つく子もいます。私たちの子どもが18歳になる頃に、このような状況が起こらないよう願い、そのために何ができるのだろうと考えた時、やはり相互理解しかないのではないかという結論に到達します。
私は2010年4月10日発行の「ケレン・ハオール6号~8号」まで3回に渡って、ハンド・イン・ハンド(HIH)エルサレム校の父母たちにインタビューを行いました。これはこの学校の活動が子どもに、どのような影響を与えているのか私にとても興味があったからでした。
エルサレム校の「オープン・デー」に参加
今年、2010年1月、HIHエルサレム校の「オープン・デー」に参加しました。この日は、入学希望の両親が授業参観できる日です。朝からいくつかのグループに分かれ、担当の先生からヘブライ語またはアラビア語で学校の様子や授業風景などの説明があり、見学します。小学校の国語のクラスでは尐人数に別れ、ユダヤの子どもたちはアラビア語を、アラブの子どもたちはヘブライ語の補習をしながら授業をしていました。
また算数のクラスでは、ヘブライ語とアラビア語で書かれた教科書を見せてくれましたが、今の形ができるまでいろいろ試行錯誤があったと話してくれました。そのような努力の結果、この教科書はバイリンガル教育として良くできた構成になっています。また校舎は日本の学校の様に教室が直線に並んでいるのではなく、螺旋状に円を描くように並んでいます。そのため、教室は一直線の硬いイメージではなく、いろいろな学年の子どもたちが自然に入り交じれる感じでした。
その後、父母たちは一つの教室に入り、学校の運営方針などの説明を聞きました。質疑応答が行われ、父母からはバイリンガルのため他の学校より多くの勉学時間が必要なこと、そのため通常の学科の学力への影響が出ることなどについて質問が出ました。しかし、先生方の説明ではこの学校の学力レベルは、イスラエル全国でも高いとのこと。その要因としては授業時間が普通より長いこと(通常の学校では午後1時に終わるが、HIHでは3時まで)、
また相互コミュニケーションがよくとれていて、きめ細かに目が届いているため、落ちこぼれが出にくいことなどが挙げられました。
授業料の話になり、通常の学費から大きくかけ離れ高額にならない様に努力して、希望者を経済的理由で制限しないようにしていることや、どうしても経済的負担がある家庭には奨学金制度もあることなどが紹介されました。もちろん父母たちの支払う学費、政府の教育援助だけではこの学校の特殊な人員運営を賄うことはできないので、これらについては、学校の活動に理解を示す各国の団体に援助を要請していることも説明されました。また、子どもの入学を希望する親は、入学願書を提出しますが、各クラスはユダヤ人/アラブ人が半々(15名程度ずつ)になるよう構成しているので、必ずしも希望者全員が入れる訳ではないことも説明されました。イスラエルでは3歳 から公立の幼稚園に入れますが、正式には4歳、5歳の2年間で、その後、小学校に入学します。HIHも政府の認可校なので、この4—5歳児の幼稚園か ら始まります。長女、恵伝(エデン)はこの2月で4歳になるので、次の新学期9月からHIHエルサレム校に入園させたいと私たちは希望しています。
HIH校と通常校の違い
ここでHIHと通常のユダヤ系教育機関の違いをお話ししましょう。現在、恵伝は家の近所にあるWIZO (Women International Zionist Organization) の経営している託児所に通っています。ここは場所柄、近隣のキリスト教アラブ人家族の子どもたちも通って来ます。一応世俗的な保育園なのですが、行事や暦はユダヤ教に沿ったものになっています。休みも「ユダヤの新年」や「過ぎ越祭」などです。毎週金曜日には安息日に入るため、ユダヤ教のお祈りもします。子どもたちはイベントとして楽しんでいるのですが、クラスにはキリスト教の3名の子どももいます。しかし彼らの文化的行事は保育園では一切ありません。
それでも去年一人のキリスト教徒のお母さんが、クリスマスにクラスの子どもたち皆にサンタロースを型どったチョコレートをプレセントしました。もちろん子ども達は大喜びで、それをかじっていました。私が残念に思うのは、毎日一緒に過ごしているのにアラブ人側の文化を知る機会が、ここのカリキュラムではないことです。その反面、入園しているアラブ人の子どもたちは、ヘブライ語やユダヤ文化を理解することができ、この3年間、家ではアラブ文化、外ではヘブライ文化を学んでいるのです。
事実、3人のアラブ人家族の子どもたちは、言語を話しだす時期にヘブライ語も同時に学び、クラスの中で普通にみんなと遊んでいます。子どもたちはまだ異文化という概念がないので、共通の興味や遊びなどでお互いに友達になっています。来年からそれぞれ次の幼稚園に進みますが、アラブ人のお母さんたちにどこに行くのか聞いてみたら、一人のお母さんは上の子がHIHに通っていて、気に入っているので下の子も入れたいと話していました。
私たちも最近、日本語とヘブライ語の違いを認識しだした恵伝に、アラビア語が新しく入って馴染めるか不安もありますが、もし同じクラスの子が新しいクラスにいれば、より馴染みやすいかなと思っています。理想を言うと、HIHのような方式が通常の学校に取り入れられることです。そうすれば、わざわざ遠くまで通う必要もなく、近所の幼馴染の子どもたちとも、そのまま一緒に成長できるのにと思います。いずれにせよ今は恵伝がHIHエルサレム校に入学を許可してもらえるかどうか、結果待ちの状況です。
ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会の機関誌「ケレン・ハオール第10号」が山崎さんからおくられてきたのでその中から三つの文章を紹介します。全文をお知りになりた方はご連絡ください。
山崎さんは2010年のイスラエル旅行でのイスラエル国籍を持つ日本人現地ガイドさんでした。彼および「ケレン・ハオール」についてはこのブログ2010年4月4日6日、6月17日19日 7月19日23日25日に紹介しているので参考にしてください。
ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会の目的
私達日本人とユダヤ人は、20世紀に人類史上前例のない最悪の惨事、広島と長崎への原爆投下とユダヤ人大量虐殺を経験した。私達は、ノー・モア・広島、長崎、ノー・モア・ホロコーストを叫び、核兵器や戦争、そして大量虐殺のない真の世界平和と民族の共存共生を希求する。
本支援会は、上記の考えに基づいて、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人青少年の共同教育推進のために、内外に向けて献金依頼活動を行う。そして、イスラエル国内における二民族の青少年共学共存を推進する団体・組織や施設の共学共存教育活動を支援する。本会の機関誌「ケレン・ハオール」を通し、広く協力を求める。
アラブ・ユダヤ共学共存の背景にあるもの 山崎智昭
現在「アラブ」と呼ばれている人たちの「アラブ」という言葉の由来は、多種多様だと思います。これを明確に定義することは、かなり難しいのが現状です。「アラブ」にはさまざまな定義がありますが、イスラム文化を誇りとし、アラビア語を愛する者がアラブであるという点で大筋一致しています。
さて、イスラエル国内において、アラブという表現で具体的な問題があります。現在、国内には2つの「アラブ」があります。一つはイスラエル・アラブ人という場合、二つ目はパレスチナ・アラブ人という場合です。同じアラブ人なのにこの両者には大きな違いがあります。イスラエル・アラブ人たちは、イスラエル国籍を持ち、パスポートもイスラエル・パスポートで海外旅行も自由にできます。一方、パレスチナ・アラブ人たちは、国籍もなく(パレスチナは国連で承認されていない)パスポートもありません。海外旅行をするときはヨルダン政府の許可を受けてパスポートを取得するか、イスラエル政府の許可を受けて取得するかしかなく、とにかく手続きがとても面倒で、彼らは通常の場合は、不可能だと思っているのが現状です。
そもそも、パレスチナ人とは1948年以降、イスラエル国となった地域を除くパレスチナに住むアラブ人、および周辺諸国に難民として逃れたアラブ人を意味することが多いのですが、イスラエル国内に住みイスラエル国籍を持つイスラエル・アラブ人を含める場合もあります。昨年妻のエステルと彼女の仲間たちが行った「イスラエル・アラブ人の子供たちへのアンケート」の回答では、自分たちはパレスチナ人だと回答している人が多くいました。しかし、ここにはイスラエル・アラブ人としての、明らかな政治的思考も多分に含まれていることも見逃せません。つまり、パレスチナのまま現在まで頑張っているパレスチナ・アラブ人たちへの遠慮があるのです。
こうした理由から、パレスチナ人が「パレスチナ人」としてのアイデンティティーをいつからどのように保持していたのかは、当然ながら一義的には決められないというのが現状だと思います。
パレスチナを唱えるアラブ人と、イスラエル国籍を取得したアラブ人はそもそも同じアラブ人なのですが、イスラエル建国を境に明確に違う形となってしまったのです。当然のことながら、パレスチナ・アラブ人の方が建国以来、貧しく苦しい生活を続けてきたのです。パレスチナ・アラブ人たちはその現実を思い、心の底では、経済的に裕福となったイスラエル・アラブ人を疎(うと)ましいと考えています。このような現状からユダヤ・アラブの共学共存を語る際には、対イスラエル・アラブ人の場合と対パレスチナ・アラブ人の場合とでは、微妙な点で「共学共存」の理解に差があります。ハンド・イン・ハンド校もエステルたちの学校も、この枠組から言えば、イスラエル・アラブのグループとの共学共存が主流です。パレスチナ・アラブは、自治区と呼ばれる、国ではない地域なので、共学共存活動を実現するためには、イスラエル政府から特別許可を得てはじめて、イスラエル・アラブ人たちとの交流活動が可能になるのです。
そうした現状のもと、現在私たちはそれらの現存する問題や枠組みをとりあえず外に置いて、私たちにしかできない活動として、違いを一つにまとめて「合同の共学共存大集合イベント」を開こうと計画しています。この企画では、イスラエル・アラブ人とパレスチナ・アラブとが直接会って面談することにより、双方の真の会話が必然的に体験できることになるのです。
ここまではアラブ側内部の問題でしたが、一方で、ユダヤ人の側を、宗教に対する考え方で区分けしてみると、そこには幾つかの内部的問題が見えてきます。そもそも、ユダヤ人内部にもユダヤ・アラブ共学共存に対して賛否両論があります。この問題では、ユダヤ人の原点であるユダヤ教における「信者」の内容を調べてみる必要があります。近年の統計によると、イスラエルに住むユダヤ人の30%は敬虔なユダヤ教信者です。そして35%が都合の良い時だけユダヤ教を守る「ヒロニーム」と称するユダヤ人たちで、残る35%は、ユダヤ人なのだが、全くユダヤ教を信じる気配を見せないユダヤ人たちというわけです。このようにイスラエルの全ての国民が敬虔なユダヤ教信者ということではない「現実」も把握しておかねばなりません。
敬虔なるユダヤ教信者たちは、基本的には共学共存活動に積極的に参加するようなことはありません。それはお互いに信じる神が違うのですから、妥協点が見つけにくいからです。ということで、共学共存活動に前向きに参加してくる人たちは、純真な宗教家とは異なる70%のユダヤ人たちの中から構成されています。初歩的な段階で両者が接近できる道を見出すためには、宗教を前面に出さずに共通の話題を選択して、共学共存へ歩みだす環境にある人たちから始めるのが賢明です。環境問題などで、清掃活動を一緒にすることも、ひとつの良い例なのです。サッカーの試合や音楽の演奏などに合同で取り組むのも、同様に良い例です。
ケレン・ハオールの活動はハンド・イン・ハンド校支援と並行して、草の根活動の支援も行っています。それは不特定多数の声なき声を聞くための活動でもあります。「シャニー・ガールズ」のように、日本へ遠征して大きな舞台に登場し、大勢の日本のお客様から喝采を受ける活動も素晴らしいことです。そして、今回の問題のように、脚光は浴びないし、雑草の狭間で目立たない動きながら、アラブ・ユダヤの共存共学の静かな歩みを着実に進めている活動も素晴らしいと思います。それらの活動は、現在イスラエル全土のあちこちで継続しています。ケレン・ハオールは新鮮な話題も積極的に取り上げて、読者の皆様にお届けしていきたいと思います。今後とも皆様の暖かいご支援を宜しくお願い致します。
この写真はクシマではなく東隣のベナン共和国のギガ要塞博物館で見たものですがアシャンティ王国の言い訳も同じだと思われるのでこの際紹介しておきます。
この文章の意味は「アフリカの王たちは奴隷交易を初めから積極的に行ったのではないが、結果的には莫大な利益を上げた」ということのようです。前回紹介したようにこの弁解は事実と異なるものです。しかしこのような言いわけが書かれているところをみると一定の説得力を持っているのでしょうね。そのためアシャンティ王の末裔が現在も一定の権力を持っているのかも。もちろん5次にわたる対英国戦争も大きな要因でしょうが。
なおアシャンティ王国での奴隷とヨーロッパ列強に売り渡された奴隷とは境遇にかなりの差があったようです。すなわちアシャンティ王国での奴隷はめったに虐待はされず虐待する者はかえって社会から軽蔑されました。また結婚もできその財産は子供に受け継がれるようにアメリカ大陸での処遇に比べ人道的であったと、ウィキペディア(英語版)は記述しています。なおこのことについては後日ベナン共和国の紹介の時に再度述べるつもりです。
軍事国家であったことを証明するかのごとく街中ではこのような光景が至る所に見られました。
人類学者ジャック・グッディは「国家形成で一般的に重視されている『生産手段』に対して西アフリカの場合『破壊手段』が果たした役割が大きい」と説いています。(山川出版 世界各国史「アフリカ史」p213)
大西洋のギニア湾から180km内陸に入ったところにアシャンティ王国(1670~19029の首都であったクマシの町があります。この国は今まで紹介してきたエルミナやケープコーストでの奴隷交易の現地での代表的当事者でした。ヨーロッパ列強に奴隷を売りその対価として鉄砲を得、その鉄砲で国を拡大し奴隷を確保しその奴隷で鉄砲を手に入れるということで国を拡大、強国にしていた典型的な国家がアシャンティ王国でした。次第にイギリスとの対立を深め5次(1823~)にもわたる対英戦争をし、ついに1902年に滅ばされ完全にこの地はイギリスの植民地になりました。現在も公用語は英語です。2月21日に紹介したようにイギリスから独立したのは1957年のことでした。
写真はかってのアシャンティ王国の末裔が住む家です。現在もこの地でかなりの権力を持っています。ウィキペディア(英語版)によれば”sub-national within Ghana” (ガーナで準国家的存在)と記載されています。