20世紀中期の経済発展の記述では農業が冒頭に挙げられています。そこでの女性の役割が課題になっています。なぜかここでは具体的な記述がありません。
以上、きちんと読み通したわけではないので読み落としがあると思いますが、私が気付いた範囲でのこの教科書に記載されていた女性に関する個所を紹介しました。
20世紀中期の経済発展の記述では農業が冒頭に挙げられています。そこでの女性の役割が課題になっています。なぜかここでは具体的な記述がありません。
以上、きちんと読み通したわけではないので読み落としがあると思いますが、私が気付いた範囲でのこの教科書に記載されていた女性に関する個所を紹介しました。
もちろん女性の活躍は戦時だけではありません。19世紀はエチオピアでは遠距離貿易が盛んになりました。そこでの女性たちの役割が課題になっています。取り立てて変わった役割が記述されているわけではありませんが、女性というテーマをあげた点に注目されます。
女性ではありませんが、このイタリア占領下で殺された人を紹介します。それは2月2日に紹介したエチオピア自前のエチオピア正教会最初の総主教ペテロです。彼はイタリア占領政策に非協力であるという理由でイタリア軍に殺害されます。写真はアディスアベバのゲオルグ教会の前にある彼の銅像です。
アドワの敗北の後、復讐の念に駆られたイタリアのファシスト、ムッソリーニは1936年エチオピアに戦争を仕掛け毒ガスを投下しながらエチオピアを占領します。その期間は1941年まで続きます。その間エチオピア各地でレジスタンス(抵抗運動)が激発します。そこで教科書の課題は「愛国的レジスタンスでのエチオピア女性の役割について議論をしなさい」です。教科書によれば「彼女たちはイタリアの高級士官などから情報や武器などを手に入れたり、直接にレジスタンスにも参加した」(要約)とあります。
教科書には「アドワの戦いでの女性の役割について話してみよう」(写真)という課題があたえられています。”group work “とあるので多分みんなで古老などから当時の話を聞きそれを持ち寄って話し合いなさいという意味でしょう。
教科書には「女性たちは戦士達に水と武器を運び、断固たる決意で闘うよう激励した。負傷した兵士たちをキャンプに運び、男性と共に戦闘に参加した人たちもいた」とあります。
この教科書を拾い読みしていたところ「○○における女性の役割」という設問がかなりあることに気付きました。
Lonely planetには 必ずその国の女性についての特別な記述がありますが、エチオピアについては他のアフリカ諸国と比べると女性の地位は高い(が、しかしは省略)とあります。
そこでこの教科書に現れた女性たちを紹介します。
何といっても最初に登場願うのはアドワの戦いの皇帝メネリク2世の后妃タイトウ(どちらも再婚)でしょう。写真は教科書に載せられているタイトウです。
アドワの戦いの直接的要因はエチオピアとイタリアが結んだ条約の解釈の相違でした。その時彼女は「私は女であるため戦いを好みませんが、これを受け入れるくらいなら戦争を選ぶ」と発言して戦争が始まります。戦争では自ら軍隊を編成して戦いました。戦後の彼女の活躍は省略します。
登下校中の子供たちによく出会いました。教科書を手にしていたので見せてもらいました。すべて英語で書かれていました。多言語国家なので共通語として英語なのでしょう。そこで現地ガイドの元高校の歴史の先生ダニエルさん(給料が安いのでガイドに転職)に手に入れることができないかと尋ねてみました。というわけで写真のような高校の歴史教科書を手に入れました。「Grade10」と書かれていますが時間的には19世紀半ば~20世紀後半が対象で地域としては自国エチオピアと他のアフリカ諸国、ヨーロッパ諸国などです。最初の章「19世紀における資本主義と植民地主義の発展」で始まり8章の「1914年~1991年のエチオピア」までの260頁です。
このアドワの戦いは子供たちでもその年代を知っているとはガイドブック”lonely planet”の記述です。
アディスアベバでの最後の昼食はtop hill という見晴らしの良いレストランでした。そのレストランに写真のような掲示がありました。アドワの戦いから帰還した人(長い名前でスペルが見にくい)がこの家を建てたと誇らしげに書かれていました。
アクスムの遺跡巡りをしていた時、突然現地ガイドがあの山の向こうが(写真)アドワの古戦場跡ですと、指差しました。私はファラシャの跡地(1月9日)とこのアドワの古戦場跡を見たいと事前に添乗員の安原さんに希望を出していました。しかしアドワについては観光コースからかなり外れていたので無理だということは最初からわかっていました。そこで私は思わず「オー」と叫びました。なぜ私がアドワに行きたかったのかを以下簡単に説明します。
アドワの戦いは1896年エチオピアとイタリア侵略軍の戦いです。この戦いでエチオピアが勝利をしてこれによってイタリア帝国のエチオピア征服の野望が潰えることになりました。このエチオピアの勝利はエチオピア自身にとってはもちろんですが、アフリカにとっても、世界史的に見ても今に至るまで強いインパクトを与えた事件でした。エチオピアにとってヨーロッパの植民地政策からの独立の確保であり、ヨーロッパ諸国にとっては初のアフリカ植民地化政策の失敗でした。これ以後アフリカで唯一ヨーロッパからの侵略を免れ独立を保ち現在に至っている国です。そして他のアフリカ諸国を勇気づけ1960年代のアフリカ諸国の独立につながります。
さてここまでは私も知っていたことで多くの人の常識でもあるでしょう。日本語の文献にも書かれています。ところが私が知っている日本語の文献にもない話がエチオピアの高校歴史教科書(次回紹介)にありました。
「アドワの勝利の影響」と題する個所で、南アフリカでは”Ethiopianism”(エチオピア主義)として知られる“religious separatist”(宗教分離主義)に火がついたと書かれていました。すなわちアフリカではヨーロッパ諸国の教会からの独立志向が強まったということです。そして教会は反植民地闘争の拠点を形成することになります。またこれはエチオピア正教会の総主教が今までエジプトのコプト教会からきていたものを自前で選出するようになったことも関係しているようです。なおこの自前の総主教の運命については後日紹介の予定です。