東温泉の周りは絶景だらけでした。以下3枚の写真を紹介します。
このブログを開設したのは2005年10月15日でした。というわけで11年目に入ります。掲載写真も3200枚を越えました。当初は半年も続けばと思っていましたが。
あといつまで続きますかね。
東温泉の周りは絶景だらけでした。以下3枚の写真を紹介します。
このブログを開設したのは2005年10月15日でした。というわけで11年目に入ります。掲載写真も3200枚を越えました。当初は半年も続けばと思っていましたが。
あといつまで続きますかね。
世界で最もよく読まれているガイドブックLONELY PLANET の“Japan” を開いてみました。三島村としては記述はありませんでしたが、硫黄島については記載がありました。以前紹介した(今年5月26日)坊津はたった3行でしたが54行もあり見出しも「Io-jimai硫黄島」でした。外国人旅行者はめったに来ないが、活火山、野生の孔雀(後日紹介)、人里はなれた温泉が著名だとありました。温泉は”onsen” と表記されていました。どうも”onsen”
は世界でも通用する言葉のようですね。もっとも、用語解説(glossary)に”mineral hot –spring spa area , usually with accommodation”とありましたが。
余談噺をもう一つ。Lonely planet(2007年版)によれば日本の観光ランキングスポットを21箇所あげていて、その一番が京都の寺と庭園ですが、6番目に“onsen”が入っていました。築地の魚市場は9番目でした。
さて、lonely planetは硫黄島の温泉を二つ紹介しています。Sakamoto Onsen坂本温泉とHigasi Onsen東温泉です。私が訪れたのは東温泉でした。Lonely planet によれば温泉通、マニアには必須(must)の所だと紹介しています。
写真はその東温泉です。
今年はじめ、「蒙古襲来」(服部英雄著)を読んでいたら蒙古の日本襲来の目的は日本から宋への硫黄輸出を阻止することにあったと書かれていました。ヘエ知らなかったなーといつものように自分の無知ぶりを反省しました。しかし、その後朝日新聞にこの本の書評があり筆者の本郷和人氏がそのようなことをなんら論証なしに述べるのはいかがなものか、
と批判されていました。そこでこの服部氏の説は通説ではないと理解し、ひとまず安堵しました?
その後、今年4月坊津観光をした時(4月29日~5月26日このブログで紹介)南さつま市坊津歴史資料センター輝津館の橋口氏から坊津の商人が硫黄島の硫黄を中国宋へ輸出していてその見返りとしての中国陶磁器が硫黄島から発掘された言う話を聞きました。正確を期するため橋口さんからいただいた「輝津館企画展図録論集」から橋口氏の論文の一節を紹介します。
「硫黄島で発見された日宋貿易時代の遺物は、硫黄輸出先である宋で製作された貿易陶磁であり、これらは硫黄島と島外との間で、硫黄島へ中国陶磁が搬入されるような交易、経済活動が行われていた可能性示唆し、当時の硫黄交易を背景として硫黄島に搬入されたものである可能性が指摘された」(p15)
というわけで、硫黄島の硫黄が元寇を招いたという私の妄想が出来上がりました。私が硫黄島に来た理由の一つがこの妄想の完結でした。ただ、服部氏は硫黄の日本産地としては阿蘇火山などを指摘していますが、硫黄島はあげられていません。それはたぶんこの硫黄島発掘が2010年~2013年のことなのでその成果をお知りにならなかったからでしょう。
写真は中国陶磁器が発掘されたところです。
硫黄鉱山は一時隆盛を極め1960年には島外からの移住者もあり人口は604名までになりましたが1964年に鉱山が操業停止になり鉱山による繁栄は止まり人口は現在116名です。
硫黄島のガイドをしていただいた徳田和良さんです。背景の建物は硫黄岳(703m)の硫黄を処理していた工場です。今は操業していません。硫黄については次回紹介予定です。左手に見えるなだらかな山が3000年前に噴火活動を停止した稲村岳(236m)です。その左奥に硫黄岳があります。稲村岳を手前に硫黄岳の私のお気に入りのメルヘンチックな風景は6月1日に紹介しています。
カタルーニャ州の州都はバルセロナですが、かのガウディの建築物で著名な都市でもあります。ガウディの紹介はまたの機会にしますが、ついでのことなので一つだけガウディゆかりのグエル公園からのバルセロナの町を紹介しておきます。
この写真はたぶんトイレでの注意板だったと思うのですが、上からカタルーニャ語、カスティーリャ語、英語ですね。みな似ていますね。カタルーニャ語とカスティーリャ語は東京弁と大阪弁ぐらいの違いぐらいしかないそうです。
硫黄島の予定でしたが、最近スペインのカタルーニャ州の独立問題がマスコミなどをにぎやかしているので、それに関連したことを紹介してみます。
「スペイン・ポルトガル」には1996年5月11日~5月25日と2009年4月2日~5月1日の2回旅行しており、ブログは2009年3月29日~2009年9月23日まで書いています。ところが、次の旅行のため中断して「『スペイン・ポルトガル』編はまだいくつか紹介したいことがありますが、後日の予定です」と書いていましたが、その課題を今日まで果たしていませんでした。その主な地域はカタルーニャ地方で紹介予定は主にガウディと言語問題でした。今回は独立問題に関係した言語の問題を紹介します。写真をご覧ください。「10,30 CASTELLANO 11,00 CATALA」 と書かれていますが、これは10時30分からカスティーリャ語、11時からはカタルーニャ語の時間と言う意味です。カスティーリャ語というのはスペインでの共通公用語でカタルーニャ語は主にカタルーニャ地方で話されカタルーニャ州の公用語です。したがって、カタルーニャ州の公用語は2つというわけです。独裁者フランコ時代にはカスティーリャ語の使用が強制されカタルーニャ語の使用が禁止されました。そのためもあって、フランコファシスト政権に最後まで抵抗したのがこのカタルーニャ地方でした。現在はカタルーニャ州では2言語の表記が義務付けられています。
3島共に港には漁船の姿をあまり見ることはありませんでした。この竹島の港にこのような看板を見かけました。お土産にしようかなと思いましたが、すでに操業を停止しているとのことでした。2004年に丸山食品という会社が操業しましたが2010年に店じまいをしました。