増田兄
前略 その後ご無沙汰しておりますが、お元気のことと存じます。
暖かくなったかと思えば、また急に寒くなる、まったくすっきりと落着かない天気の毎日ですが、お蔭で寒い所為か、まだ、近所の公園の櫻は見ごろが続いております。
今年も、いつもの年のように、春の到来を忘れずに庭の椿が一斉に咲き揃いました。
椿によっては隔年咲きであったり、気候の変化でタイミングがずれたり、自然の摂理に従って入れ替わってはおりますが、九月頃から少しづつ咲き続けていた椿が、毎年、桜の季節になりますと一挙に咲き乱れます。
まだ、蕾の固い椿が残っていますが、5月の末頃まで花の咲く椿もあります。
さて、この椿の咲き乱れるのを待って、楽しみにしていた貴兄より頂いた貴重な御作品「焼締花器」に登場願い、早速、思い切り椿を生けてみました。
作法が分からないので、とにかく、貴兄の花器が隠れるくらい花を挿しましたが、椿の彩りだけで十分と言うことで、アレンジの不恰好はお許し下さい。
ずっしりと重い、そして、優雅な球形を描いて程よい口を開いた、この力強い荒い地肌の備前様の花瓶が、しっかりと椿の枝を抱きしめて、華麗な椿を泳がせ踊らせてくれているのです。
昨年は、手術で2週間の入院生活の後帰宅した時に、主の居ない庭に咲き乱れていた椿をいとおしんで、この花器を使わせて頂いたのですが、あれから一年、生の不思議と自然の営みの豊かさに感激しながら、しみじみと花瓶の椿を眺めています。
私にとっては、これから毎年、桜の季節には、貴兄に頂いたこの花器を取り出して、このように出番を待っている椿を思い切り飾って、生きることの大切さを噛み締める良いチャンスを頂いた、と思って感謝しております。
何時も肝に銘じて感じているのですが、この美しい椿の花びらも、庭の石ころも、そして、私自身の身体も、この世の中の総ては、原子、分子の段階まで分解すれば総て同じ物質の集まり。そう考えれば、総て同じなのですよね。
たまたま、沢山の分子たちが,(その分子が椿になっていても、石になっていても不思議ではない同じ分子なのに、)偶然に集まって私の身体を作り上げてくれているのですが、このことさえ不思議で仕方がない。
しかし、それにもまして、たまたま形作られた私の身体に、私と言う意識を持った人間が生きている、意識はどうして何処から生まれて来たのか全く信じられないことですが、これは正に奇跡中の奇跡としか言いようがない、何時もそう思って生の不思議とその神秘さに畏敬の念を覚えて感激しております。
明日は、お釈迦さまの誕生日。以前に、奈良の法華寺を訪れた時、庵主さまが、仏前に並べた茶碗に一輪づつ椿の花を浮かべて仏を荘厳されていましたが、椿は、丁度、お釈迦さまの誕生日頃に一番美しく咲く花ですから、喜ばれるのでしょうか。
椿は、本来日本や中国の花木ですが、ポルトガル人と一緒に海を渡って、ヴェルディの椿姫の頃は、大変な人気でカメリア・ブームを捲き起こし、その後、欧米では、沢山の椿が、薔薇のように豪華な花に品種改良されています。
国粋主義ではありませんが、この花器の椿は、意識して総て日本椿。日本でも、牡丹を意識したのか、随分豪華で美しい花を作出しています。
花弁がすぐに落ちるので、一頃は忌み嫌われましたが、それもいとおしい花の命、私は、椿が一番素晴しい花木だと思って育てています。
素晴しい春の到来を、貴兄の花器に生けた椿のムンムンする香りに包まれながら感じつつ、その喜びをお伝え致したくパソコンをたたいております。
あらためて、花器のお礼を申し上げ、同時に、季節の変わり目、貴兄のご自愛をお祈り致したいと存じます。 早々
前略 その後ご無沙汰しておりますが、お元気のことと存じます。
暖かくなったかと思えば、また急に寒くなる、まったくすっきりと落着かない天気の毎日ですが、お蔭で寒い所為か、まだ、近所の公園の櫻は見ごろが続いております。
今年も、いつもの年のように、春の到来を忘れずに庭の椿が一斉に咲き揃いました。
椿によっては隔年咲きであったり、気候の変化でタイミングがずれたり、自然の摂理に従って入れ替わってはおりますが、九月頃から少しづつ咲き続けていた椿が、毎年、桜の季節になりますと一挙に咲き乱れます。
まだ、蕾の固い椿が残っていますが、5月の末頃まで花の咲く椿もあります。
さて、この椿の咲き乱れるのを待って、楽しみにしていた貴兄より頂いた貴重な御作品「焼締花器」に登場願い、早速、思い切り椿を生けてみました。
作法が分からないので、とにかく、貴兄の花器が隠れるくらい花を挿しましたが、椿の彩りだけで十分と言うことで、アレンジの不恰好はお許し下さい。
ずっしりと重い、そして、優雅な球形を描いて程よい口を開いた、この力強い荒い地肌の備前様の花瓶が、しっかりと椿の枝を抱きしめて、華麗な椿を泳がせ踊らせてくれているのです。
昨年は、手術で2週間の入院生活の後帰宅した時に、主の居ない庭に咲き乱れていた椿をいとおしんで、この花器を使わせて頂いたのですが、あれから一年、生の不思議と自然の営みの豊かさに感激しながら、しみじみと花瓶の椿を眺めています。
私にとっては、これから毎年、桜の季節には、貴兄に頂いたこの花器を取り出して、このように出番を待っている椿を思い切り飾って、生きることの大切さを噛み締める良いチャンスを頂いた、と思って感謝しております。
何時も肝に銘じて感じているのですが、この美しい椿の花びらも、庭の石ころも、そして、私自身の身体も、この世の中の総ては、原子、分子の段階まで分解すれば総て同じ物質の集まり。そう考えれば、総て同じなのですよね。
たまたま、沢山の分子たちが,(その分子が椿になっていても、石になっていても不思議ではない同じ分子なのに、)偶然に集まって私の身体を作り上げてくれているのですが、このことさえ不思議で仕方がない。
しかし、それにもまして、たまたま形作られた私の身体に、私と言う意識を持った人間が生きている、意識はどうして何処から生まれて来たのか全く信じられないことですが、これは正に奇跡中の奇跡としか言いようがない、何時もそう思って生の不思議とその神秘さに畏敬の念を覚えて感激しております。
明日は、お釈迦さまの誕生日。以前に、奈良の法華寺を訪れた時、庵主さまが、仏前に並べた茶碗に一輪づつ椿の花を浮かべて仏を荘厳されていましたが、椿は、丁度、お釈迦さまの誕生日頃に一番美しく咲く花ですから、喜ばれるのでしょうか。
椿は、本来日本や中国の花木ですが、ポルトガル人と一緒に海を渡って、ヴェルディの椿姫の頃は、大変な人気でカメリア・ブームを捲き起こし、その後、欧米では、沢山の椿が、薔薇のように豪華な花に品種改良されています。
国粋主義ではありませんが、この花器の椿は、意識して総て日本椿。日本でも、牡丹を意識したのか、随分豪華で美しい花を作出しています。
花弁がすぐに落ちるので、一頃は忌み嫌われましたが、それもいとおしい花の命、私は、椿が一番素晴しい花木だと思って育てています。
素晴しい春の到来を、貴兄の花器に生けた椿のムンムンする香りに包まれながら感じつつ、その喜びをお伝え致したくパソコンをたたいております。
あらためて、花器のお礼を申し上げ、同時に、季節の変わり目、貴兄のご自愛をお祈り致したいと存じます。 早々