昨夜、池袋の東京芸術劇場で、トヨタ・マスター・プレイヤーズ、ウィーンの素晴しい演奏会があった。
毎年、質の高い素晴しいウィーン・フィル・サウンドを奏でてくれるの、楽しみに出かけているのだが、今回は、東京では名古屋フィルとのジョイント・コンサートだけだったので、正直な所どうしょうかと迷っていた。
しかし、後半の飯森範親指揮のR.シュトラウスの『アルプス交響曲』とアンコールのJ.シュトラウスの「雷鳴と稲妻」は、素晴しい演奏であった。
大きなコンサートマスター・シュトイデの横で懸命に指揮棒を振る小さな飯森が素晴しく輝いて見える、縦横にオーケストラからダイナミックで華麗なサウンドを引き出す飯森の力量が素晴しい。
もっとも、混成オーケストラと言っても、楽団員の3分の1、そして、各パートのトップやソロは、ウィーンからの音楽家であるから極めて水準が高いのだが、名古屋フィルの楽員も感化され引っ張られて素晴しいサウンドを奏でており、大編成のオーケストラが、フルサウンドでも実に良く歌っていて感激した。
管のソロが素晴しく美しいのは勿論だが、それに、放列を敷いている打楽器群の演奏が又秀逸で、名古屋フィルの打楽器奏者が実に上手く呼応している。
私は、アルプス交響曲を聞いたのは、ロンドンのバービカンで確かマイケル・ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団のコンサート一回きりだが、コンセルトヘボウやフィルハーモニアでもシュトラウスの曲を聞くことが多かったが、とにかく、大掛かりな編成のオーケストラの派手で華麗なサウンドの咆哮を楽しみに聞いていた。
ハイティンクが、ロイヤル・オペラ管を振って「英雄の生涯」を演奏した時など、楽団員がオペラハウスの舞台に乗り切らずにボックス席にはみ出して演奏していた。
前半は、ウィーンの音楽家だけの室内楽団の演奏で、フィガロの結婚序曲、ソプラノ森麻季とバリトン福島明也によるモーツアルトのオペラのアリア集、それに、セレナード第九番「ポストホルン」で、モーツアルト・イヤーを意識したのであろう、オール・モーツアルト・プロである。
勿論、指揮者なしの演奏で、ウィーン・フィル関係の室内楽団は、コンサート・マスター中心が多い。
ウィーン・フィルの場合でも、ロンドンのチクルスでアンコールにヨハン・シュトラウスのワルツを演奏した時も、ムーティは最後まで指揮台に居たが、別の日、レヴァインはタクトを振り下ろすとさっさと指揮台を降りて舞台の袖に消えてしまって、オーケストラだけで最後まで演奏したことがあった。
もう、文句なしのウィーン・フィル・サウンドで、目を閉じて、懐かしいウィーンの風景や思い出を反芻しながら聞いていた。
ポストホルン・セレナードは、7楽章と言うモーツアルトにしては大曲。とにかく、弦は勿論だが、ウィーンの管のサウンドがこれに輪をかけて素晴しく、弦と管の絶妙なかけあいが堪らない。
6楽章の中間でウィーン・フィルのトランペット主席ハンス・ペーター・シューがすっくと立ちあがって、左手にトランペットを持ち代えて右手でポストホルンを摑んで口に当てて華麗にそして高らかに演奏する。
ところで、二人のモーツアルトのアリアだが、森麻季は素晴しい歌声を披露してくれたが、スザンナとツェルリーナで一寸役不足、年の関係か伯爵夫人や夜の女王は無理なのであろうか。
福島のバリトンは凄かった、ドン・ジョバンニのもっと本格的なパートをと思ったが、このオペラのアリア集は、フェスティバル的なコンサートの所為か、あまりにも初歩的なさわり集に終わってしまっているのが物足りなかった。
いずれにしろ、トヨタのメセナの一環事業だが、素晴しい演奏会であった。
しかし、結構安くて手ごろな料金だが空席が可なりあったのは何故であろうか。
(追記)椿は、岩根絞。
毎年、質の高い素晴しいウィーン・フィル・サウンドを奏でてくれるの、楽しみに出かけているのだが、今回は、東京では名古屋フィルとのジョイント・コンサートだけだったので、正直な所どうしょうかと迷っていた。
しかし、後半の飯森範親指揮のR.シュトラウスの『アルプス交響曲』とアンコールのJ.シュトラウスの「雷鳴と稲妻」は、素晴しい演奏であった。
大きなコンサートマスター・シュトイデの横で懸命に指揮棒を振る小さな飯森が素晴しく輝いて見える、縦横にオーケストラからダイナミックで華麗なサウンドを引き出す飯森の力量が素晴しい。
もっとも、混成オーケストラと言っても、楽団員の3分の1、そして、各パートのトップやソロは、ウィーンからの音楽家であるから極めて水準が高いのだが、名古屋フィルの楽員も感化され引っ張られて素晴しいサウンドを奏でており、大編成のオーケストラが、フルサウンドでも実に良く歌っていて感激した。
管のソロが素晴しく美しいのは勿論だが、それに、放列を敷いている打楽器群の演奏が又秀逸で、名古屋フィルの打楽器奏者が実に上手く呼応している。
私は、アルプス交響曲を聞いたのは、ロンドンのバービカンで確かマイケル・ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団のコンサート一回きりだが、コンセルトヘボウやフィルハーモニアでもシュトラウスの曲を聞くことが多かったが、とにかく、大掛かりな編成のオーケストラの派手で華麗なサウンドの咆哮を楽しみに聞いていた。
ハイティンクが、ロイヤル・オペラ管を振って「英雄の生涯」を演奏した時など、楽団員がオペラハウスの舞台に乗り切らずにボックス席にはみ出して演奏していた。
前半は、ウィーンの音楽家だけの室内楽団の演奏で、フィガロの結婚序曲、ソプラノ森麻季とバリトン福島明也によるモーツアルトのオペラのアリア集、それに、セレナード第九番「ポストホルン」で、モーツアルト・イヤーを意識したのであろう、オール・モーツアルト・プロである。
勿論、指揮者なしの演奏で、ウィーン・フィル関係の室内楽団は、コンサート・マスター中心が多い。
ウィーン・フィルの場合でも、ロンドンのチクルスでアンコールにヨハン・シュトラウスのワルツを演奏した時も、ムーティは最後まで指揮台に居たが、別の日、レヴァインはタクトを振り下ろすとさっさと指揮台を降りて舞台の袖に消えてしまって、オーケストラだけで最後まで演奏したことがあった。
もう、文句なしのウィーン・フィル・サウンドで、目を閉じて、懐かしいウィーンの風景や思い出を反芻しながら聞いていた。
ポストホルン・セレナードは、7楽章と言うモーツアルトにしては大曲。とにかく、弦は勿論だが、ウィーンの管のサウンドがこれに輪をかけて素晴しく、弦と管の絶妙なかけあいが堪らない。
6楽章の中間でウィーン・フィルのトランペット主席ハンス・ペーター・シューがすっくと立ちあがって、左手にトランペットを持ち代えて右手でポストホルンを摑んで口に当てて華麗にそして高らかに演奏する。
ところで、二人のモーツアルトのアリアだが、森麻季は素晴しい歌声を披露してくれたが、スザンナとツェルリーナで一寸役不足、年の関係か伯爵夫人や夜の女王は無理なのであろうか。
福島のバリトンは凄かった、ドン・ジョバンニのもっと本格的なパートをと思ったが、このオペラのアリア集は、フェスティバル的なコンサートの所為か、あまりにも初歩的なさわり集に終わってしまっているのが物足りなかった。
いずれにしろ、トヨタのメセナの一環事業だが、素晴しい演奏会であった。
しかし、結構安くて手ごろな料金だが空席が可なりあったのは何故であろうか。
(追記)椿は、岩根絞。