中村歌右衛門が逝ってもう5年、4月歌舞伎は、その追悼5年祭と、玉太郎の松江襲名、5代目玉太郎初舞台を祝した晴れやかな舞台である。
豪華な口上も面白く、舞台に華を添えていた。
菊五郎が、先代萩の政岡の稽古を付けて貰っていた時に、菊五郎が「何が何して何とやら」と言った所で間髪を入れずに「音羽屋」と相槌を入れ、「と言われるようにやるんですよ」言ったと言う逸話を披露していた。
雀右衛門の口上は、何時もひやひやして聞いているのだが、今回も、歌右衛門と雀右衛門と取り違え。しかし、晩年は、何時も成駒屋と一座して途中休演の代役として控えていたくらいだから、万感の思いであろう、女形の芸は総て歌右衛門から学んだと言い、最後の病床でも立ち上がって教えてくれたのが嬉しかったと語っていた。
歌右衛門の芸は学べても、本当の歌右衛門の芸は肉体と共に滅びてしまって永遠に戻らないのだと、どこかで雀右衛門が言っていたが、一番それを知っているのは雀右衛門その人であると思う。
左團次の口上は何時も面白くて楽しみなのであるが、今回は、マージャンに誘われたが冷房のない真夏の対戦で、暑くてやり切れず許しを得て裸になったは良いが、「汚いおへそだねえ」と言われて、その後お呼びがなくなった、と言う話をしていた。
客席が前列上手過ぎて、菊五郎や雀右衛門はすぐ側だが、下手端に座っていた藤十郎や又五郎の口上が良く聞こえなかったのが残念であった。
とにかく、舞台で至芸を演じる千両役者が、いざ、芝居の台詞ではなく、自分で何かを自分の意思で話すとなると、全く内容が貧弱で、とちったり上手く話せない人がいるのは面白い現象である。
ロンドンから帰ってから歌舞伎座に通い始めたので、私が、歌右衛門の舞台を観たのは、3回だけで、「弧城落月」の淀の方、「建礼門院」、そして、幸いにも歌舞伎座の本興行の最後となった「井伊大老」のお静の方、である。
この最後の舞台も、最後の3回は、雀右衛門に代わったようであるが、身体が不自由になっていたのであろう、動きを極力切り詰めた、しかし、身体全体で訴えかける至芸に、なぜ、あんなに初々しく可愛い女を演じられるのか舌を巻いて観ていた。
身体も心も思いのままに自由で、何でも出来る境涯ではなし得なかったような、ぎりぎりの所で舞台を務める為には、一切の無駄や余裕を切り落として、今まで蓄積してきた芸のエキスと本質だけが抽出されて表現される、総てを心に任せて心の赴くままに昇華された、そんな舞台であった。
ところが、今回は、養子の魁春がお静で、もう、生身の女がムンムンする、一途に直弼を思い嫉妬に悶える、可愛くて健気な側室を、今様の舞台でも全く異質感のない現代的なお静を、実に上手く演じていた。
直弼を演じるのは、歌右衛門の時も魁春の時も、中村吉右衛門であるが、実父白鸚の極め付きの舞台を再現できるのは吉右衛門しか居ないのであろう。
安政の大獄後の風雲急を告げる政争の中で、開国を突きつけられて死に直面する直弼のほんの束の間の平和な小休止を描いたこの作品だが、理屈抜きで直弼のお静への思い入れと愛に溺れ慟哭したい気持ちが痛いほど分かる。
現在でさえ、世界認識のなさで政治経済が翻弄されている状態であるから、鎖国中で世界との交流を絶っていた当時としては、日本の将来など判るわけがなく、直弼の苦渋は大変であったであろう。
吉右衛門は、お静との対話の中で、揺れ動く心の襞を実に丁寧になぞりながら、大老ではない1人の人間に戻って感動を込めて演じている。
演じられる舞台が静かで平穏であればあるほど、背後の激動の世相が浮彫りにされてきて、吉右衛門が、時には現実を、時には、懐かしい昔の彦根の埋木舎を彷彿とさせながら、虚と実を使い分け、ふっと吾に返るあたり、実に上手い。
仙英禅師に死を覚悟していることを見抜かれ、お静にも知られていることを知ってからの直弼は、総ての迷いを捨てて心のそこからお静に溺れ恋焦がれる、それは、お静に象徴される母の懐への回帰かも知れない。
何時も感心するのだが、今回もそうだが、準主役としての仙英を演じる富十郎の存在感は抜群である。
小屏風の直弼の筆跡に険難の兆しがあるとお静に明かす、静かで凛とした佇まいとその風格が、吉右衛門と好一対であり、清清しい。
老女雲の井の歌江、側役宇左衛門の吉三郎も存在感を感じさせる演技で、非常に良質の「井伊大老」で、歌右衛門への素晴しい追善の舞台となった。
豪華な口上も面白く、舞台に華を添えていた。
菊五郎が、先代萩の政岡の稽古を付けて貰っていた時に、菊五郎が「何が何して何とやら」と言った所で間髪を入れずに「音羽屋」と相槌を入れ、「と言われるようにやるんですよ」言ったと言う逸話を披露していた。
雀右衛門の口上は、何時もひやひやして聞いているのだが、今回も、歌右衛門と雀右衛門と取り違え。しかし、晩年は、何時も成駒屋と一座して途中休演の代役として控えていたくらいだから、万感の思いであろう、女形の芸は総て歌右衛門から学んだと言い、最後の病床でも立ち上がって教えてくれたのが嬉しかったと語っていた。
歌右衛門の芸は学べても、本当の歌右衛門の芸は肉体と共に滅びてしまって永遠に戻らないのだと、どこかで雀右衛門が言っていたが、一番それを知っているのは雀右衛門その人であると思う。
左團次の口上は何時も面白くて楽しみなのであるが、今回は、マージャンに誘われたが冷房のない真夏の対戦で、暑くてやり切れず許しを得て裸になったは良いが、「汚いおへそだねえ」と言われて、その後お呼びがなくなった、と言う話をしていた。
客席が前列上手過ぎて、菊五郎や雀右衛門はすぐ側だが、下手端に座っていた藤十郎や又五郎の口上が良く聞こえなかったのが残念であった。
とにかく、舞台で至芸を演じる千両役者が、いざ、芝居の台詞ではなく、自分で何かを自分の意思で話すとなると、全く内容が貧弱で、とちったり上手く話せない人がいるのは面白い現象である。
ロンドンから帰ってから歌舞伎座に通い始めたので、私が、歌右衛門の舞台を観たのは、3回だけで、「弧城落月」の淀の方、「建礼門院」、そして、幸いにも歌舞伎座の本興行の最後となった「井伊大老」のお静の方、である。
この最後の舞台も、最後の3回は、雀右衛門に代わったようであるが、身体が不自由になっていたのであろう、動きを極力切り詰めた、しかし、身体全体で訴えかける至芸に、なぜ、あんなに初々しく可愛い女を演じられるのか舌を巻いて観ていた。
身体も心も思いのままに自由で、何でも出来る境涯ではなし得なかったような、ぎりぎりの所で舞台を務める為には、一切の無駄や余裕を切り落として、今まで蓄積してきた芸のエキスと本質だけが抽出されて表現される、総てを心に任せて心の赴くままに昇華された、そんな舞台であった。
ところが、今回は、養子の魁春がお静で、もう、生身の女がムンムンする、一途に直弼を思い嫉妬に悶える、可愛くて健気な側室を、今様の舞台でも全く異質感のない現代的なお静を、実に上手く演じていた。
直弼を演じるのは、歌右衛門の時も魁春の時も、中村吉右衛門であるが、実父白鸚の極め付きの舞台を再現できるのは吉右衛門しか居ないのであろう。
安政の大獄後の風雲急を告げる政争の中で、開国を突きつけられて死に直面する直弼のほんの束の間の平和な小休止を描いたこの作品だが、理屈抜きで直弼のお静への思い入れと愛に溺れ慟哭したい気持ちが痛いほど分かる。
現在でさえ、世界認識のなさで政治経済が翻弄されている状態であるから、鎖国中で世界との交流を絶っていた当時としては、日本の将来など判るわけがなく、直弼の苦渋は大変であったであろう。
吉右衛門は、お静との対話の中で、揺れ動く心の襞を実に丁寧になぞりながら、大老ではない1人の人間に戻って感動を込めて演じている。
演じられる舞台が静かで平穏であればあるほど、背後の激動の世相が浮彫りにされてきて、吉右衛門が、時には現実を、時には、懐かしい昔の彦根の埋木舎を彷彿とさせながら、虚と実を使い分け、ふっと吾に返るあたり、実に上手い。
仙英禅師に死を覚悟していることを見抜かれ、お静にも知られていることを知ってからの直弼は、総ての迷いを捨てて心のそこからお静に溺れ恋焦がれる、それは、お静に象徴される母の懐への回帰かも知れない。
何時も感心するのだが、今回もそうだが、準主役としての仙英を演じる富十郎の存在感は抜群である。
小屏風の直弼の筆跡に険難の兆しがあるとお静に明かす、静かで凛とした佇まいとその風格が、吉右衛門と好一対であり、清清しい。
老女雲の井の歌江、側役宇左衛門の吉三郎も存在感を感じさせる演技で、非常に良質の「井伊大老」で、歌右衛門への素晴しい追善の舞台となった。