熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

絹谷幸二展・・・日本橋高島屋

2008年09月12日 | 展覧会・展示会
   日本橋高島屋で絹谷幸二藝大教授の絵画展が開かれている。
   サブタイトルどおりの「情熱の色・歓喜のまなざし」をキャンバスにぶっつけたもの凄いエネルギーを感じさせる絵画で充満しており、圧倒される。
   色彩は元気のバロメーター、色彩の溢れる所は平和と喜びに満ち溢れていると言うのが持論だと言うことだが、今回展示されている一連の日本各地の祭風景や群像の絵を見ていると、その喜びが芸術として昇華されるとどう表現されるのかが分って面白い。

   情熱の色と言うくらいだから、強烈な赤がまず目に飛び込むのだが、日の丸ではないが、あっちこっちの絵に描かれている大きな日輪など真っ赤な円盤で、とにかく、人物の顔の影まで赤く染め抜くと言う徹底振りである。
   この口絵写真は、チラシの絵を複写した「蒼穹夢譚」だが、このように青色などの寒色を使った絵は空を描いた絵など非常に少ないと言うか、青い下地の絵でも強烈な赤い顔料に圧倒されると言うことであろうか。
   とにかく、一寸イメージが違うが色彩の美しいルドンの絵や、極彩色の歌舞伎の世界を瞬間的に思い出した。

   絹谷画伯は、藝大卒業後すぐにイタリアに行きフレスコ画を学んだとかで、その技法を使って描いており、麻布のキャンバスを裏返して漆喰様の下地を塗って、その上に自分が編み出した特別な顔料で描くと言うことのようであり、洋画と言っても、私には、表面の雰囲気は日本画に近いように感じた。

   ところで、奈良出身で、仏像に接するなど宗教的な雰囲気の中で育ったと言うことで、「祈り」と言うコーナーで、何点かの仏画が展示されていた。
   この口絵写真の風神・雷神を描いた絵もその一点で、有名な俵屋宗達やそれを模した尾形光琳の風神雷神図よろしく、風神と雷神を左右入れ替えて中空に舞わせた絵だが、面白いのは、砂漠の上に倒れ伏した男を描き、その横に、火山の噴火口、潜水艦、負傷者をタンカで運ぶ軍人達を表現したディスプレーをスーラタッチで描いている。
   2000年の作品であるからブッシュのイラク戦争の告発でもなさそうだが、面白いのは、その絵の前に、同じ様な格好で砂の上に倒れているメガネをかけた男の彫刻「緑にしみる悲しみ 1997年」が展示されていて、ここには、イカロスをイメージしたのか、千切れた天使の羽が散らばっているのだが、いずれにしろ、このモチーフが展開されて風神雷神図となり、別な表現方法から平和を願った絵なのかも知れないと思った。

   真ん中に阿弥陀如来、左に牛に乗った大威徳明王、右に二人の童子を従えた不動明王を描いた巨大な「菩提心」、中空に観音が舞う「天空の華」、それに、宇治平等院・鳳凰堂の木像雲中供養菩薩を何体か描いた「天空の調」などが展示されていたが、克明に仏像として描くのではなく線描画のような雰囲気で画面に溶け込ませているのが面白い。
   ところで、別なコーナーに大きな自画像が3点展示されていて、色即是空と言った文字が書き込まれていたのだが、祈りの心で宇宙や森羅万象を描き続けてきたと言うことであろうか。

   私が見慣れていた絵は、やはり、長野冬季オリンピックのポスター、特に、オリーブを口にくわえた女性を描いた「銀嶺の女神」だが、何点か、非常に簡潔で素晴らしい原画が展示されていた。
   興味深いのは、いくら崇高なテーマが描かれていても、絹谷画伯の絵には、マンガのように、ガッーンとか、ウオーとか、がんばれとか、擬音や台詞が書き込まれていることが多いのである。
   オリンピックの絵では玉とスティックとのぶつかる音や、祭では群集の掛声などは勿論で、随所に劇画の手法が使われているのである。

   そのほかにも、浮世絵や日本画などの日本の伝統芸術の手法を取り入れた、ワビサビではないが、本来の朱と緑に彩られた寺社仏閣、金色に輝いていた仏像、歌舞伎の世界等々極彩色で輝いていた日本の美意識である芸術を、ヨーロッパの手法を用いながら展開している。
   メキシコでも学んだと言うから、あのメキシコ市のあっちこっちで見られるシケイロスの強烈な人民パワーを叩きつけて描かれたスケールの大きな壁画の影響も受けているのであろうか、日本の典型的なモチーフであっても、計算し尽し非常に緻密で精緻に描きながらも、絹谷画伯の絵には、イメージをはるかに超えた迫力と創造力が感じられる。

   ところが、絵には多くのメッセージと画伯の希いが込められているのであろうが、劇画やポスタータッチで、派手な造形とデフォルメが強烈な、極彩色の色の洪水のような絵画であるから、幻惑されてしまって、思想性が感じられない嫌いがある。
   例えば、人気があって良く売れるようだが、とんがった富士山と日輪を描いた派手な絵にしても、画伯の絵に込めたイメージは非常に豊かなのであろうが、横山大観の墨絵タッチの非常にシンプルな絵と比べると、どうしても装飾画と言う感じになってしまって精神性に欠けてしまう。

   この印象は、例えば、自宅のリビングなどに飾って毎日見るとどう感じるかと考えると分るのだが、やはり、絹谷幸二画伯の絵は、パブリックの場やハレの時の絵で、それでこそ、「情熱の色・歓喜のまなざし」が生きてくるのである。  

   
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