昨夜、錦糸町のトリフォニー・ホールで、アルミンク指揮による素晴らしいセミ・ステージ・オペラ「薔薇の騎士」で、新日本フィルの定期公演が開幕した。
自室に自筆ハガキを飾るほど心酔していると言うリヒャルト・シュトラウスの20世紀最大の官能陶酔オペラ(?)と言われ、全編に流麗なワルツが流れていると言っても良いほどウィーンの香りがむんむんする素晴らしいオペラを、ウィーン子のアルミンクが演奏するのであるから、楽しくない筈がない。
それに、新日本フィルのコンサート・オペラは、舞台上背後にオーケストラが陣取ってはいるとは言うものの、舞台の前面半分をオープンにして、時には、中二階のオルガン席や客席を使っての本格的なセミ・ステージ・オペラで、それに、ニューヨーク生まれで、斬新で素晴らしく芸術性の高いオペラなどのステージ創造で定評のある飯塚励生の演出による殆ど本格的なオペラ公演であるから、並みのオペラ公演など足元にも及ばないほど素晴らしい。
それに、この公演では、やや下に沈んだ感じの舞台上の新日本フィルが舞台セットに実に上手く溶け込んでおり、何よりも、前回の「こうもり」に引き続いて、アルミンクの薫陶の賜物よろしく、益々流麗さと濃厚な官能美に厚みを増したウィーン訛り(?)の新日本フィル・サウンドの艶かしさはたまらない魅力である。
舞台下手に設営された大きな白いカーテン幕が開くと、大きなキングサイズのベッドが現れ、ウエルデンベルグ公爵夫人(ナンシー・グスタフソン)と、その愛人オクタヴィアン伯爵(藤村実穂子)との愛の交歓の夜明けから舞台が始まるのだが、
このオペラのひとつの重要なテーマは、この美しくて魅力的な淑女が、時の流れに逆らえず忍び寄る老いの足音を感じながら、若くて溌剌として輝いている愛人から離れざるを得なくなる運命を描くことで、若い二人・オクタヴィアンとゾフィー(ヒュン・ライス)の素晴らしい愛で幕を閉じる最後のシーンまで、実に叙情的で時代の変わり目のウィーン情緒で満ち溢れている。
愛の終りを悟って身を引く覚悟をした哀切を込めて吐露する公爵夫人を加えた3人による終幕の三重唱と、そして愛する二人の二重唱の美しさとその官能美は格別であるが、この愛の物語だけならタダの平凡な舞台に終わる。
しかし、ここに、公爵夫人のいとこで、助平で俗物根性丸出しの田舎ものオックス男爵(ビヤーニ・トール・クリスティンソン)が登場して、財産目当てに新興貴族ファニナル(ユルゲン・リン)の娘ゾフィーと結婚するので、婚約のしるしの銀の薔薇を届ける騎士を紹介してくれと頼む所から、ドタバタ喜劇が始まる。
小間使いのマリアンドルに身を代えて出て来たオクタヴィアンを口説いて、これが仇となり、終幕で散々コケにされて追放されるのだが、一方、少しでも上に這い上がりたいと追従これ努めるファニナルの小市民的な新興貴族の姿など、わさびの効いた人物の登場で実に面白い舞台となっている。
第二幕で、銀の薔薇を持って颯爽と登場するオクタヴィアンとゾフィーとの運命的な出会いで、一挙に舞台が展開するのだが、元々、ホフマンスタールもタイトルを、「オックス男爵」としようかと考えたと言うくらいだから、このオペラでのオックス男爵のハチャメチャ振りと型破りの人物描写は実に痛快で面白い。
今回の公演でのクリスティンソンの実に深みと情感たっぷりのオックス男爵は秀逸で、ウィーン・フォルクスオーパーで鳴らしたと言うから、芸達者ぶりは折り紙つきで、とにかく、顔の表情が男前からかなり距離があるので、その分の俗物ぶりは板についている。
私は、伯爵夫人のグスタフソンの若い頃の舞台をイギリスで見ているが、今回の舞台での実に陰影を帯びた歳月の流れをそこはかとなく憂いに満ちた表情で歌う姿に感動を覚えて、芸の推移の凄さに感じ入った。この気持は、去年、METでマノン・レスコーを歌ったカリタ・マッティラに感じたのと同じである。
ところで、ゾフィーを歌ったヒュン・ライスだが、ルーシー・クローウェに代わっての登場のイスラエルの若いソプラノだが、実に美しくて上手い。
第二幕の薔薇の騎士の登場でのオクタヴィアンとの二重唱から、もう、魅力全開の素晴らしい歌声を披露し、聞き惚れてしまった。
最後になってしまったが、今回の舞台で、やはり、最大の収穫は、タイトルロール薔薇の騎士を歌ったオクタヴィアンの藤村実穂子で、実に朗々とした日本離れのした深みのあるパンチの利いた歌唱で、ややソプラノに近い、しかし、実に温かくて柔らか味みに満ちた素晴らしい歌声が、若くて気品のある青年貴族の風格を滲ませていて感動的である。
難を言えば、ボリュームと押し出しの利いた欧米人のソリストに対抗しての舞台なので、小柄で控え目な性格が災いしたのか、舞台姿が、溌剌とした今を時めく青年貴族としての風格に欠けていて、迫力を欠いたことであろうか。
余談だが、私は、何時も薔薇の騎士と言うと、もう20年以上も前になるが、折角、チケットを持っていながら、タクシーが拾えずに遅れてMETに入って、第一幕のパバロッティのイタリア人歌手を聞けずに、ロビーの貧弱な画面で聴かざるを得なかったことを思い出して悲しくなる。
この時の配役は、オクタヴィアンはタチアーナ・トロヤノス、公爵夫人は、キリ・テ・カナワ、オックス男爵はクルト・モル、ゾフィーはジュディス・ブレゲン。
何回か薔薇の騎士を、海外で観ているが、もうひとつ記憶にあるのは、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターがオクタヴィアンを歌ったロイヤル・オペラの舞台である。伯爵夫人は、ロットだったかも知れない。
日本では、カルロス・クライバーの振ったウィーン・フィルの舞台が有名だが見過ごしてしまったし、中々、素晴らしい「薔薇の騎士」を見る機会は少ないようである。
自室に自筆ハガキを飾るほど心酔していると言うリヒャルト・シュトラウスの20世紀最大の官能陶酔オペラ(?)と言われ、全編に流麗なワルツが流れていると言っても良いほどウィーンの香りがむんむんする素晴らしいオペラを、ウィーン子のアルミンクが演奏するのであるから、楽しくない筈がない。
それに、新日本フィルのコンサート・オペラは、舞台上背後にオーケストラが陣取ってはいるとは言うものの、舞台の前面半分をオープンにして、時には、中二階のオルガン席や客席を使っての本格的なセミ・ステージ・オペラで、それに、ニューヨーク生まれで、斬新で素晴らしく芸術性の高いオペラなどのステージ創造で定評のある飯塚励生の演出による殆ど本格的なオペラ公演であるから、並みのオペラ公演など足元にも及ばないほど素晴らしい。
それに、この公演では、やや下に沈んだ感じの舞台上の新日本フィルが舞台セットに実に上手く溶け込んでおり、何よりも、前回の「こうもり」に引き続いて、アルミンクの薫陶の賜物よろしく、益々流麗さと濃厚な官能美に厚みを増したウィーン訛り(?)の新日本フィル・サウンドの艶かしさはたまらない魅力である。
舞台下手に設営された大きな白いカーテン幕が開くと、大きなキングサイズのベッドが現れ、ウエルデンベルグ公爵夫人(ナンシー・グスタフソン)と、その愛人オクタヴィアン伯爵(藤村実穂子)との愛の交歓の夜明けから舞台が始まるのだが、
このオペラのひとつの重要なテーマは、この美しくて魅力的な淑女が、時の流れに逆らえず忍び寄る老いの足音を感じながら、若くて溌剌として輝いている愛人から離れざるを得なくなる運命を描くことで、若い二人・オクタヴィアンとゾフィー(ヒュン・ライス)の素晴らしい愛で幕を閉じる最後のシーンまで、実に叙情的で時代の変わり目のウィーン情緒で満ち溢れている。
愛の終りを悟って身を引く覚悟をした哀切を込めて吐露する公爵夫人を加えた3人による終幕の三重唱と、そして愛する二人の二重唱の美しさとその官能美は格別であるが、この愛の物語だけならタダの平凡な舞台に終わる。
しかし、ここに、公爵夫人のいとこで、助平で俗物根性丸出しの田舎ものオックス男爵(ビヤーニ・トール・クリスティンソン)が登場して、財産目当てに新興貴族ファニナル(ユルゲン・リン)の娘ゾフィーと結婚するので、婚約のしるしの銀の薔薇を届ける騎士を紹介してくれと頼む所から、ドタバタ喜劇が始まる。
小間使いのマリアンドルに身を代えて出て来たオクタヴィアンを口説いて、これが仇となり、終幕で散々コケにされて追放されるのだが、一方、少しでも上に這い上がりたいと追従これ努めるファニナルの小市民的な新興貴族の姿など、わさびの効いた人物の登場で実に面白い舞台となっている。
第二幕で、銀の薔薇を持って颯爽と登場するオクタヴィアンとゾフィーとの運命的な出会いで、一挙に舞台が展開するのだが、元々、ホフマンスタールもタイトルを、「オックス男爵」としようかと考えたと言うくらいだから、このオペラでのオックス男爵のハチャメチャ振りと型破りの人物描写は実に痛快で面白い。
今回の公演でのクリスティンソンの実に深みと情感たっぷりのオックス男爵は秀逸で、ウィーン・フォルクスオーパーで鳴らしたと言うから、芸達者ぶりは折り紙つきで、とにかく、顔の表情が男前からかなり距離があるので、その分の俗物ぶりは板についている。
私は、伯爵夫人のグスタフソンの若い頃の舞台をイギリスで見ているが、今回の舞台での実に陰影を帯びた歳月の流れをそこはかとなく憂いに満ちた表情で歌う姿に感動を覚えて、芸の推移の凄さに感じ入った。この気持は、去年、METでマノン・レスコーを歌ったカリタ・マッティラに感じたのと同じである。
ところで、ゾフィーを歌ったヒュン・ライスだが、ルーシー・クローウェに代わっての登場のイスラエルの若いソプラノだが、実に美しくて上手い。
第二幕の薔薇の騎士の登場でのオクタヴィアンとの二重唱から、もう、魅力全開の素晴らしい歌声を披露し、聞き惚れてしまった。
最後になってしまったが、今回の舞台で、やはり、最大の収穫は、タイトルロール薔薇の騎士を歌ったオクタヴィアンの藤村実穂子で、実に朗々とした日本離れのした深みのあるパンチの利いた歌唱で、ややソプラノに近い、しかし、実に温かくて柔らか味みに満ちた素晴らしい歌声が、若くて気品のある青年貴族の風格を滲ませていて感動的である。
難を言えば、ボリュームと押し出しの利いた欧米人のソリストに対抗しての舞台なので、小柄で控え目な性格が災いしたのか、舞台姿が、溌剌とした今を時めく青年貴族としての風格に欠けていて、迫力を欠いたことであろうか。
余談だが、私は、何時も薔薇の騎士と言うと、もう20年以上も前になるが、折角、チケットを持っていながら、タクシーが拾えずに遅れてMETに入って、第一幕のパバロッティのイタリア人歌手を聞けずに、ロビーの貧弱な画面で聴かざるを得なかったことを思い出して悲しくなる。
この時の配役は、オクタヴィアンはタチアーナ・トロヤノス、公爵夫人は、キリ・テ・カナワ、オックス男爵はクルト・モル、ゾフィーはジュディス・ブレゲン。
何回か薔薇の騎士を、海外で観ているが、もうひとつ記憶にあるのは、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターがオクタヴィアンを歌ったロイヤル・オペラの舞台である。伯爵夫人は、ロットだったかも知れない。
日本では、カルロス・クライバーの振ったウィーン・フィルの舞台が有名だが見過ごしてしまったし、中々、素晴らしい「薔薇の騎士」を見る機会は少ないようである。